石河雅望ノ伝
石河雅望ノ伝
六樹園石河氏にして名ハ雅望字ハ子相五
老と号しまた蛾術齋と号す通称は中村屋
五郎兵衛といふ江戸伯楽街に住しヤト人宿す
(ことをも?)て家の業とせり。若冠より専ラ和漢
の書を読て博識を以聞えたり資性諧謔を
好ミて大田南畝唐衣橘洲朱楽菅江などと
もに始て東曲の狂哥を唱へ宿屋飯盛と(号?)
して其名海内に轟けり古今狂歌囊東曲
狂歌文庫?其初手に撰する所なりみづか
ら詠る秀歌最多しといへとも人口に膾
炙するものハ
歌よみは下手こそよけれ天地の
うこき出してたまるものかハ
といへるなりいかなることにか中ころ不慮の禍
ひにあひてもとの住所をさり四ッ谷新宿にう
つりて此所にをること数年其間みづ
から狂哥の社を迯れてい??和漢のを
渉猟念を著述に傾けて雅言集覧の企あ
りまたふかく源氏物語を好ミて精読する
こと数多度時の人五郎の源癖とていみし
きことにいひあへりつひに原注余滴廿巻を
著して大に古人の不得解ことを発明するこ
と??またかねて稗官の学を好み通俗醒
世恒言同排悶録等を著し或ハ戯に飛騨内
匠物語淡海縣物語等を作る其後文化の始
め人々にそゝのかされて再狂歌の社を開
きけるに門にいるもの甚多くしてはやく
此道を以帷をはり家を立るともか??翁の
ためにをさけさるハあらすなむ同十二
年家を霊岸島湊街にうつしてますます
此道を唱へけるにつひにその派流三十余国に
みち其社にいるもの三千余人に及へり実に
古今未曾有の盛事といふへし狂歌万代
集狂歌作者部類職人尽狂歌合飲食狂
哥合吉原十二時狂歌集金石狂哥集等皆
其撰をする所なりまた倭文章かくことに長し
て都のてふり里梅枝物語蠧巣栖物語等の作
あり或ハ源氏枕双子等の筆意にならひ或ハ
今昔物語宇治拾遺等のおもかけをうつされ
たるにいつれもよく古人に彷彿たり近世
賀茂真淵大人本居鈴屋ノ翁なといへる人々の
出てより以来皇国の学を以世に鳴文章か
くことをもてみづからほこりたる人々?是彼
ありといへとも此翁とたけくらべせんには跡を
くらまして迯さるはあらさるべし其説に曰我
皇朝風の文章かゝんとならば延喜より花山
一條の間の体をまねぶべし今?(世?)にもてはや
すめる古学家風といへるこそ最いとふべき
ものなれさるハ其文章上古の風か
とおもへはさハなくて大抵中古のすかたなる
にこゝにもかしこにもきゝなれぬ古き詞
どもの交りありてうたてきゝくるしきこと
鄙人の偶都ニ(?)出て強に其ものいひをまねひ
いへるかさすかにすミなれしのをりをり
うち出て可笑きに異ならす近世の倭文章
にハ大かた此病なきハあらざればまづ此病を
清くさらんことこそ皇国風の文章かくこと
の第一義にハあなれとハいはれきされハ清水浜
臣片岡寛光なといへる輩も陽にハいたく
此翁をにくみそしりたれと陰にハふか
く其説を感て常に文なとものするには
もはら此翁のをしへにしたかハれしとぞ
また狂哥を評するの暇に何くれ戯文
をかゝれけるに諧謔百般大に人の顎を
解しむ其集を吾嬬奈満理といふ上梓し
かくの如くなりといへども聊も傲慢の気あ
ることなく実に世とよく押うつるの人にて
ものしらぬ狂哥者流といへとも終日話し
てさらにうむことなしされハみつから儒者を
以をらす又和学を以をらすただ狂歌を
任として其党にのみ交り遊ハれたりされ
はあまりに狂哥の名の世に高きによりて
かへりて学才の聞えを蔽ふにいたるももし
此翁をしてかく狂哥の徒に交ることなから
しめば厳然たる皇朝学の博士にして其
右に出る人あらさるべし然ともつひに其
大名雲の上まてもきこしめされて文政十一
年五月
二條左大臣殿より御歌にそへて烏帽子水干
を賜ハり誹諧歌の宗匠たるへきよし許
をかうふりぬ
其御歌曰
咲そめて色めつらしき梅かえは
なほたをりても見はやとそ思ふ
御かへし
たをりてもかひあるへくもおもほえす
老木の梅のいろかうすきハ
かくて同十二年三月神田より火出て霊岸
島鉄炮洲にいたるまで残りなく焼わたり
ける時翁の舘もこの災にかゝりて雅言集
覧源注余滴をはじめ年来著ハされたる
書の草稿ともみながら焼うせにけれは
翁も大に望をうしなひ深く歎き思は
れつゝ是より後ハただふしがちにて枕をの
ミ友にてくらされけるかつつひに天保元年閏
三月廿四日齢七十八にてみまかり給ひぬ則
某の寺に葬りて俗名六樹院臺譽五老
居士と申しき
天保二年十二月七日
六々園春足誌
◯この文章は雅望の没後一年九ヶ月足らずの時点で書かれたことに注意する必要がある。今と比べて比較にならないほど情報量の少なかった時代、しかも阿波の徳島という江戸から遠く隔たった地で雅望の人となりの要点を余すことなく記述していることは驚きである。入門以来(以前から)雅望に心酔し、教えを受けていた春足ならではの追悼文である。粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』によれば、長男塵外楼清澄は墓の側に石碑を建立したがその石碑は今はなく碑文(吉田勇雄撰文の漢文)が残っているとのことである。とすればこの追悼文は貴重な資料と言える。
*某の寺 石川家の菩提寺である蔵前の榧寺(かやでら)(正式には正覚寺の子院哲相院)
*発明 利発なこと(旺古)ここでは「明らかにする」という意。
*通俗醒世恒言 四巻五冊 明馮夢竜撰 逆旅主人(石川雅望) 訳 寛政2年刊(国書データベース)粕谷宏紀著『石川雅望研究』P83参照)
*同排悶録 通俗排悶録 文政十一年 同P319 国書データベースにあり
*近江縣物語 5巻 六樹園先生著 ; 北尾紅翠齋画 宇多閣儀兵衞 : 螢雪堂宗兵衞 : 瑞玉堂安兵衞 : 耕書堂重三郎, 文化5刊 巻之1巻之2巻之3巻之4巻之5 タイトル別名 淡海縣物語 近江県物語 オウミアガタ モノガタリ
*同十二年家を霊岸島湊街にうつし 粕谷宏紀著『石川雅望研究』は文化十年とする。
*吾嬬奈満理 狂文吾嬬奈満理文化 十年刊行。
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