刊本・自筆稿本等

六々園漫録 第二巻

石河雅望ノ伝

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102281

石河雅望ノ伝
六樹園石河氏にして名ハ雅望字ハ子相五
老と号しまた蛾術齋と号す通称は中村屋
五郎兵衛といふ江戸伯楽街に住しヤト人宿す
(ことをも?)て家のナリとせり。若冠より専ラ和漢
の書を読て博識を以聞えたり資性ウマレツキ諧謔を
好ミて大田南畝唐衣橘洲朱楽菅江などと
もに始て東曲アツマフリの狂哥を唱へ宿屋飯盛と(号?)
して其名海内に轟けり古今狂歌囊東曲アヅマフリ

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102282

狂歌文庫?其初手に撰する所なりみづか
ら詠る秀歌最多しといへとも人口に膾
炙するものハ
 歌よみは下手こそよけれ天地の
  うこき出してたまるものかハ
といへるなりいかなることにか中ころ不慮の禍
ひにあひてもとの住所をさり四ッ谷新宿にう
つりて此所にをること数年其間みづ
から狂哥の社を迯れてい??和漢のを
渉猟アナグリヨミオモヒを著述に傾けて雅言集覧の企あ

りまたふかく源氏物語を好ミて精読する
こと数多度アマタタビ時の人五郎の源癖とていみし
きことにいひあへりつひに原注余滴廿巻を
著して大に古人の不得解ことを発明するこ
と??またかねて稗官セツセヲの学を好み通俗醒
世恒言同排悶録等を著し或ハ戯に飛騨内
匠物語淡海縣物語等を作る其後文化の始
め人々にそゝのかされて再狂歌の社を開
きけるに門にいるもの甚多くしてはやく
此道を以帷をはり家を立るともか??翁の

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102283

ためにをさけさるハあらすなむ同十二
年家を霊岸島湊街にうつしてますます
此道を唱へけるにつひにその派流三十余国に
みち其社にいるもの三千余人に及へり実に
古今未曾有の盛事といふへし狂歌万代
集狂歌作者部類職人尽狂歌合飲食狂
哥合吉原十二時狂歌集金石狂哥集等皆
其撰をする所なりまた倭文章ミクニフミかくことに長し
て都のてふり里梅枝物語蠧巣栖シミノスミカ物語等の作
あり或ハ源氏枕双子等の筆意にならひ或ハ

今昔物語宇治拾遺等のおもかけをうつされ
たるにいつれもよく古人に彷彿たり近世
賀茂真淵大人本居鈴屋ノ翁なといへる人々の
出てより以来コノカタ皇国ミクニの学を以世に鳴文章フミ
くことをもてみづからほこりたる人々?是彼
ありといへとも此翁とたけくらべせんには跡を
くらまして迯さるはあらさるべし其説に曰我
皇朝風ミクニフリの文章かゝんとならば延喜より花山
一條の間の体をまねぶべし今?(世?)にもてはや
すめる古学家ブリといへるこそコトニいとふべき

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102284

ものなれさるハ其文章上古の風か
とおもへはさハなくて大抵オホカタ中古のすかたなる
にこゝにもかしこにもきゝなれぬ古き詞
どもの交りありてうたてきゝくるしきこと
鄙人の偶都ニ(?)出てアナガチに其ものいひをまねひ
いへるかさすかにすミなれしのをりをり
うち出て可笑ヲカシきに異ならす近世の倭文章ミクニフミ
にハ大かた此病なきハあらざればまづ此病を
清くさらんことこそ皇国風の文章かくこと
の第一義にハあなれとハいはれきされハ清水浜

臣片岡寛光なといへる輩もウヘにハいたく
此翁をにくみそしりたれとシタにハふか
く其説をヨロコヒて常に文なとものするには
もはら此翁のをしへにしたかハれしとぞ
また狂哥を評するの暇に何くれ戯文
をかゝれけるに諧謔百般大に人の顎を
解しむ其集を吾嬬奈満理といふ上梓し
かくの如くなりといへども聊も傲慢の気あ
ることなく実に世とよく押うつるの人にて

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102285

ものしらぬ狂哥者流といへとも終日話し
てさらにうむことなしされハみつから儒者を
以をらす又和学を以をらすただ狂歌を
任として其党にのみ交り遊ハれたりされ
はあまりに狂哥の名の世に高きによりて
かへりて学才の聞えをオホふにいたるももし
此翁をしてかく狂哥の徒に交ることなから
しめば厳然たる皇朝学の博士にして其
右に出る人あらさるべし然ともつひに其
大名雲の上まてもきこしめされて文政十一

年五月
二條左大臣殿より御歌にそへて烏帽子水干
を賜ハり誹諧歌の宗匠たるへきよし許
をかうふりぬ
   其御歌曰
 咲そめて色めつらしき梅かえは
  なほたをりても見はやとそ思ふ
   御かへし
 たをりてもかひあるへくもおもほえす
  老木の梅のいろかうすきハ

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102286

かくて同十二年三月神田より火出て霊岸
島鉄炮洲にいたるまで残りなく焼わたり
ける時翁の舘もこの災にかゝりて雅言集
覧源注余滴をはじめ年来著ハされたる
書の草稿ともみながら焼うせにけれは
翁も大に望をうしなひ深く歎き思は
れつゝ是より後ハただふしがちにて枕をの
ミ友にてくらされけるかつつひに天保元年閏
三月廿四日齢七十八にてみまかり給ひぬ則
某の寺に葬りて俗名六樹院臺譽五老

居士と申しき
  天保二年十二月七日
             六々園春足誌

◯この文章は雅望の没後一年九ヶ月足らずの時点で書かれたことに注意する必要がある。今と比べて比較にならないほど情報量の少なかった時代、しかも阿波の徳島という江戸から遠く隔たった地で雅望の人となりの要点を余すことなく記述していることは驚きである。入門以来(以前から)雅望に心酔し、教えを受けていた春足ならではの追悼文である。粕谷宏紀氏の『石川雅望研究』によれば、長男塵外楼清澄は墓の側に石碑を建立したがその石碑は今はなく碑文(吉田勇雄撰文の漢文)が残っているとのことである。とすればこの追悼文は貴重な資料と言える。
*某の寺 石川家の菩提寺である蔵前の榧寺(かやでら)(正式には正覚寺の子院哲相院)

東京蔵前の榧寺にある石川雅望の墓

*発明 利発なこと(旺古)ここでは「明らかにする」という意。
*通俗醒世恒言 四巻五冊 明馮夢竜撰 逆旅主人(石川雅望) 訳 寛政2年刊(国書データベース)粕谷宏紀著『石川雅望研究』P83参照)
*同排悶録 通俗排悶録 文政十一年 同P319 国書データベースにあり 
*近江縣物語 5巻 六樹園先生著 ; 北尾紅翠齋画 宇多閣儀兵衞 : 螢雪堂宗兵衞 : 瑞玉堂安兵衞 : 耕書堂重三郎, 文化5刊 巻之1巻之2巻之3巻之4巻之5 タイトル別名 淡海縣物語 近江県物語 オウミアガタ モノガタリ
*同十二年家を霊岸島湊街にうつし 粕谷宏紀著『石川雅望研究』は文化十年とする。
*吾嬬奈満理 狂文吾嬬奈満理文化 十年刊行。

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