清石問答
清石問答
一とせ石川五老翁と清水浜臣と源氏物語
の中なる字音の詞の問答ありけるを清石問
答と名つけて一巻となしてありけるよし
大江広海ものかたりなりきおのれも此ことを
きゝていとゆかしくおほえけるまゝに翁のもと
へせうそこのついてにさるものあらハみまほしき
よしこひやりけるに翁かうぞかきておこされ
たる
清石問答と申書私方にハ無之候これハ
六七年已前にかの法師をこゝろミに源語
の中字音の詞ハいかにこゝろえたると申
て候へはくさぐさ注しつけておこせ候其節
小子痢をやミ打臥居候へともかれかひか
ことを少々とかめつかハしさふらひきさの
ミ心も用ひす書つかはし候をかれか方にて
本のやうにいたし門人にもみせ候よし小子
方へハ秘しかくし候事也しかし去年ある
武家の仁よりかり候て見候處小子方へは一向
おこさゝることを一段かきそへ申候まけじた
ましひなる坊主の作御覧にたらぬものにて候
○要旨 ①ある年、石川五老翁と清水浜臣が源氏物語中の字音(ある文字の読み方。漢字の読みかた)について議論したことがあったのを一巻にしたものがあると大江広海から聞き、私も読みたくなって五老翁に直接問いあわせたところ、次のような返事があった。②そのような書物はない。③それは六七年前、源語中の字音について清水浜臣がどう考えているか聞いたところ彼はいろいろ注釈をつけて返事をよこしてきたことがある。④その頃、私は痢を病んで臥せっていたので、あまり気にも掛けず(軽い気持ちで)彼の間違を正し、返事を書いた。⑤浜臣はこのやりとりを本に仕立て、門人にも見せていたよし。但し私には知らせなかったので私は知らなかった。⑥去年ある武家のお方から(そういう本があることを知らされ)借りて読んだところ、私が言いもしなかったことをあれこれ書き加えて作ったものだった。⑦あの坊主の負けず嫌いな性格から作った本でつまらないものだから無視してくれてよい。
○「六七年已前に」から始まる五老書簡は本HPの手鑑2-33-3にそのまま残っている。この件については、粕谷宏紀著『石川雅望研究』P156に詳しく説明されている。注目すべき点は春足が雅望死後刊行した『難後言(なんしりうごと)』の中で雅望を弁護する根拠としてとりあげているのが本書簡である。
松屋叢話
○松屋叢話
五老翁云一日わか友催馬か高田與清の松
屋叢話といふものをもてきたるまゝかたはし
くりかへし見るにあまりに癖説の多かりけ
れば見すくしかたくていさゝか筆加へおき
???いハれぬおのれもいとゆかしくおほえ
てやかて催馬にこひてこれを見るにじちに
妖魔の前に明鏡さしげ出たらん心ちぞせられ
たるさて其中ことに心にとゝまりておほえ
けることを一くだりこゝにかいつく
???古今著聞集飲食ノ部に道命阿
闍梨修行しありきけるにやまうとの
ものをくハせけるをこれハ何といふものぞ
ととひけれハかしこにひたはえて侍る
??麦なんこれなるといふをきゝてヨミ
侍りける
ひたはえて鳥たにすへぬ杣むきに
しらつきぬへきこゝちこそすれ
と見?たり此ひたはえてといふ詞ハ頓生
の意なるべし万葉八の巻?衣手尓水渋
付左右殖之田乎引板吾波倍直守有
栗子(?るし)新古今秋ノ上にみしまつきうゑし
山田にひたはへて又袖ぬらす秋はきに
けりなといふひたハ鳥獣のおとろかし
?(に?)せし引板の事なれと道命阿闍梨
???たるハさる心としも聞えずすへぬハ
すゑぬにやまたすまぬの語にてもある
べしし?ハ麦のしけりし中に生る?にて
?坂東の国にてもしらといへり杣麦ハ
しけりあひたるさまのことにて?としけり
栗の約語しはとふをかよハしいひたる
にやし?山とも杣山ともいへるなと思ひ
あわすべし云々
翁云此うた下句しゝつぎぬべきを此人よミ
誤りてしらと思ひてかく異なる説を
なしたりしゝは野猪と肉とを秀句にいへ
る也うまき麦をくひて痩たるものゝ肉
つぎにといひてさて田畑にハ野猪のつくこと
をしたにいへるなりひたハしゝなとおふ
ものなれば上の句にとり出ていへるなり此
五文字新古今集によめるか如し引板
を長く綱もてつなきたるなりはえてハ
もののびてつづくことにいへる詞なり山
田のなるこを綱に長くつなぎたるなり
ひたたへてとかくべきをたえてとなして
??(不思?)議なることをいひたり鳥だにすゑぬ
とかくへきをこれをも誤りかきたりすゑぬ
をすまぬの誤りにてもあるべしといひたる
もまた誤りなりすゑぬといはされはひた
?へてに応せ?(す?)この人かゝる詞をも
会得せすして利口ふりするよ?りをみに
すゑし??おもふの哥をもしらぬにや
静蘆?(云?)杣麦ハ蕎麦の誤りなるべきか
*高田(小山田) 与清(おやまだ ともきよ、天明3年1783~弘化4年1847は、江戸時代後期の国学者。初名は貴長、通称は寅之助、庄次郎、仁右衛門、茂右衛門、六郎左衛門、将曹。字は文儒、号は松屋、玉川亭、擁書倉、知非斎、報国恩舎。(wiki)
*松屋叢話(マツヤソウワ) 江戸時代後期随筆 小山田与清。(weblio)
*衣手尓 衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子 作者不明 万葉集巻八1634 衣手(ころもで)に、水渋(みしぶ)付くまで、植(う)ゑし田を、引板(ひきた)我が延(は)へ、まもれる苦し (衣の袖(そで)に田の水渋(みしぶ)がつくほどに(頑張って)植えた田を、鳴子(なるこ)を張って守るのは苦しいことですね。水渋(みしぶ)は、水面に浮かぶ錆(さび)のようなものをいいます。引板(ひきた)は鳴子(なるこ)のことで、音を立てて鳥などを田に入れないようにします。(たのしい万葉集)
○五老翁の話として「我が友催馬が高田(小山田)与清の書いた松屋叢話という本を持ってきたのでざっとみたところ、あまりにも間違いが多いので放っておけず筆を加えた」という事を聞き、自分も非常に興味をそそられたので直接催馬の所へ行ってその本を借りて読んだ。その中で心にとどまったところを一件ここに書き記す。」という書き出しで、高田与清が万葉集中の「衣手尓 水澁付左右 殖之田乎 引板吾波倍 真守有栗子」万葉集巻八1638詠み人知らずのうたを取り上げ自説を展開していることに春足の考えを述べたもの。国学者、あるいは国語学者顔負けの蘊蓄をかたむけているところ注目。
コメント