刊本・自筆稿本等

六々園漫録 第二巻

おそろしきもの(神田大火)

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102256(同上)

○おそろしきものよる鳴雷家に盗人の入りたる近き火と
清原のおもとハかゝれけれと雷ハかならす落へきものにもあ
らすぬす人ハ家をしもとるものかハたゝおそれてもおそ
???しミてもつゝしむへきハ加具土神の御怒にそ
ありける????文政十二年三月廿一日?はかり江戸神田佐

久間街といへる所より火いでて芝新橋あたりまて縦ハ
五十丁あまり横ハ三十丁ばかりただやけにやけてさしもい
らかをならへ軒をつらねて造りまうけたる千万の家
どもゝわづかに一ト日一ト夜のほどにみながら烟??しもなりはて
ぬるぞをしともをしくかなしともかなしきわざなりける
さて此火の??おのれハきくごとにうち驚きぬることすべて
五たひなりさるハ四月朔日の朝はじめて大坂よりかくと
つげきたりけるに南北八丁堀霊岸島ものこりな
うやけぬる??なれハさハかまへおきつる家師の
??舘なとものかれざめりとまづうち驚きぬされと

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102257

????わたりへハ道のほと大方一里ばかりもあれハ万
のものは??ぬりごめにをさめたるべけれハさのミにハあらさ
めりとおもひをりけるを同三日おのれが手人茂平といへる
よりセうそこしてつはらにことのよしいひおこせたるにいかな
れハかの塗籠ヌリゴメノはしはしとやけて家わざにすめる染草ハさ
らなり何くれの家の具どもみながらなくなりぬるよし
なれハふたゝびうち驚くこと大かたならずまた同廿五日
師の君のもとよりせうそこあり霊岸島ハ火のもとへハい
と遠かりけれどこ??(ちの?)風下カゼシモにてありけれハたちまち火
?びうつり?ちかきあたりよりハなかなかにはやうもえ出

けれハみなあはてまどひいのちをうしなへるもいと
多かりしとそされハ塵外楼ぬしなともよろづのことハう
ちおきて??(ただ?)翁御夫婦をのミたすけまゐらせつゝい
そぎたちのき給ひけるにはやくも火??(もえ?)きたりてほと
ほと髪の毛もやけぬへうなりきけれハ(?)何くれの調度か
は(ら?)やまとの書どもハさらなり年ころものし給へる雅言集
覧源氏余滴の草稿をさへえとり出給ハてのこりなう
やき給へり?か此二ツの書ともハ翁がまたいとわかうおハせ
しほとより凡四十年ヨソトセあまりよるとなくひるとなく
????(ひたすら?)ものし給へるフミなるをかう一時にしもなくなし

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102258

けるはあさましともくちをしともいはんすべなうそおほ
えたる??(これ?)ぞおのれか三たひの驚きにハありけるまた
おなしとき塵外楼ぬしよりもせうそこありてはやうこそ
の冬おのれか企つる猿蟹物語狂哥合いとめづらかなりと
遠近ヲチコチよりう?(た?)どもいとふさにつどひよりておほかた二百人
ばかりにもおよびぬるを春友亭梅明のきておのれかもと
にも三四十人斗りもあつまりてあなれハいで一ツになして
??おくら?とてかしこにもてかへりぬるをあやにくにえさり
がたきことのいできて????といひをりけるほどにつひに此
火のワザハひにハあひぬといひおこせぬこれぞおのれか四たひ

のおどろきにハありける其のちおなじ廿七日博労街の
西村与八といへるよりもせうそこあり此博労街ハ
火のもとへハいとちかきわたりなれと風のすぢにあらざれば
霊岸島八丁堀なとよりハ猶のちにやけたりとぞされハ
はじめハうたがひなくのがるべうおもひて心のうちゆうよ
してありけるを俄に火とびきたりてもえ出けれハいつ
れもくハくハといひていみじうあわてまどひけるとかやさて
書どもいれたるに塗篭ヌリコメハことなうのこりたれと年ころの
ゑり板どもをいれたる塗篭やけうせてそこはくのゑり
板をはしめおのれが白痴物語の板をさへやきぬとか

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102259

此物語こぞ?の冬はじめていできておのれがもとへもまづ試
にとて??すりておこせたれどそこゑり人どもの誤
??ふしふしも多けれハことし春おのれかく?へただし
などしてやりていまだ一部も世には出ざるほどなるにはや
くも灰燼となりぬることくちをしなどいはんもなか
なかなりこれぞおのれか五たびいみじき驚きにハあ
りけるをそもし江戸の火の出ぬることハむかしも今もめ
つらしきことにハあらされどかはかりおそろしきことハかの
明暦三年の火よりの前にハをさをさ?????やげに
?廿一日ハ西北風いとおひたゝしう吹て砂烟そらをおほ

ひつゝ大路のゆきかひたにもたハやすくハできがたきほと
なるにかく火の出ぬ??なれハ何かハたまるべき忽車の
輪のやうなる炎そこかしこにとびゆきて火くち六所に
わかりつゝ西ハ御堀かきり東ハ大川かきり凡三十丁はかりか
ほとただひたやけにやけゆくさまかのもろこし赤壁の火攻と
いふともこれにハしかじとおほゆるまでにありしとかや南ハ
鉄炮洲築地の海をきり芝新橋まて五十余丁にして
凡一千三百廿五戸大船五十余艘とそ聞えし

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102260

さて明暦大火の事ハ世の人のいひ出ることなれど文政の今を
??こと凡百七十余年及びぬれハ其つばらなることハ
しる人まれなりさるをおのれか蔵書故郷帰江戸噺
といへるものに此火のこといとくハしくしるしたるを見るに
すへて火の出ぬること三たひなり其はしめての火ハ正月
十八辰の刻本郷四丁目よりいでて南ハ霊岸島北ハ
浅草まてやけて其夜寅のこくに鎮り同十九日巳の
刻二たひ小石川新鷹匠町より火でて諸大名ハさら
なり御城御殿守二三の丸までやけつひに鉄炮洲ハ海

辺に到りて酉の刻ばかりに鎮り尚亦同夜戌刻糀
町五丁目より三たび火出て愛宕増上寺辺にいたり
芝口三丁目浜べまでやけたりとぞ三たびともすべて
西北風つよくことに此ころまてハ川く(し?)も橋すくなく其
上長持といふもの多くありて家々より是を押
出しけれハ道すぢ通行なりかたくとかくするほとに火
もえきたりつゝそこにてもこゝにても焼死の人夥
敷すへてその数十万二千百余人とそ聞えし即其カラ
を一所に埋ミて新に寺を建立す今両国橋のむかふ
なる諸宗山廻向院是なりといへりくハしくハ本書に

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102262

つ??て恐るへし

*カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ほのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ほのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。(wiki)
*文政の大火、文政12年3月21日(1829年4月24日)に江戸で発生した大火。神田佐久間町から出火し、北西風により延焼した。「己丑火事」「神田大火」「佐久間町火事」などとも呼ばれる。焼失家屋は37万、死者は2800人余りに達した。神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどであった。火災の原因は、タバコの不始末であったという。松本清張の長編時代小説『逃亡』は、この大火を背景としている。(wiki)

○要旨 ①「おそろしいものは夜の雷、盗人、近火」と清少納言は書いているけれども中でも火事ほど恐ろしいものはない ②文政十二年三月廿一日、神田の佐久間街から出火した火は芝・新橋までタテ五十丁あまり(約5キロメートル)ヨコ三十丁ばかり(約三・三キロメートル)を焼き尽くした。③この火事について自分は五回驚くことがあった。④その一、初めの情報は四月一日、大坂からもたらされたもので、南北八丁堀・霊岸島もすべて焼けたということなので自分が構えておいた江戸店(八丁堀)、石川翁の家(霊岸島)も免れなかっただろうとまずびっくり。⑤その二、しかしわが支店は(火元から?)一里も離れており、貴重な物はすべて塗篭に収めておいたので助かったかもしれないと思い直していたところ、四月三日、我が家の使用人茂平という者から知らせがあり、塗篭も焼け、商品の染草はもちろん家財道具に至るまですべて焼失したということで二度目のびっくり。⑥その三、四月二十五日、石川翁から手紙が到着、霊岸島は火元から遠かったが東風にあおられてたちまち火がつき、髪の毛も焼けそうなほどになり、塵外楼(長男)の助けにより翁夫婦は脱出。しかし、万巻の書物ほか、雅言集覧、源注余滴など、およそ四十年にわたって夜となく昼となく書き綴った著作物もすべて灰燼と帰したと聞いて三度目のびっくり。⑦その四、同じころ塵外楼清澄からも手紙が来て、自分が去年の冬、企画した「猿蟹狂歌合」に載せるはずの狂歌(これは非常に珍しかったとみえ、各地から二百余りの応募があり、また森友亭梅明が来て自分の所にも三四十集まっているので一つにまとめようと言って持って帰ったもの)も全部焼けてしまった。これが四つ目の驚き。⑧その後、四月廿七日、博労街の西村与八(白痴物語など刊行した書肆)からも手紙が届き、博労街は火元に近かったが風筋には当たっていなかったため少し油断していたところ飛び火のため燃え移り、塗篭に入れてあった書物は無事であったものの、版木を入れてあった塗篭が焼け、自分(春足)の白痴物語の版木も焼失してしまったとのこと。これは去年冬、校正刷りが来たので誤植をいくつか直して送り返し、世間にはまだ一部も出ていなかったのであるが、全部焼けてしまったとのこと、これが五つ目のびっくり。⑨江戸の大火はめずらしいことではないが、これは明暦以来最大の大火である。。焼失した家一千三百二十五戸、大船五十余艘と言われている。
○文政十二年の江戸大火は春足の江戸店を焼いたばかりでなく、師・雅望の住宅も焼いてしまったのである。この大火により雅望は万巻の蔵書他、雅言集覧、源注余滴の草稿まで失ってしまった。粕谷宏紀『石川雅望研究』によると、この火事は雅望にとって相当ショックだったと見え、この後寝込みがちになり、約一年と二ヶ月余りの後の天保元年閏四月二十四日、死去したという。なおこの大火後、雅望から来た書簡は本HPの手鑑3-16-1にあるが、日附は五月二十一日となっており、その四の塵外楼清澄書簡より後に書かれたものと思われる。

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