文化十三丙子春六々社の人々六樹園翁ぬしおのれ三人を判者として花の歌とも集めけるとき六樹園翁のもとよりかきおこされたる文
〇文化十三丙子春六々社の人々六樹園翁ぬしおのれ三人を判者として花の歌とも集めけるとき六樹園翁のもとよりかきおこされたる文
富貴自在徳嶋につとへる歌膝のろくろくのひとつら
鳴門の浪の花を題にてこゝかしこにしをりしつゝ
桜間の池のふかきあさきをいとはす善六橋のたわむ
はかりこゝらのことのはをよせあつめつかくて大麻彦
の御まつりのくらへ馬といふ式にならひてなにかしらに
鞭をとらせてとしとおそきをこゝろミんとす
おもふたつぼに北山桜こゝらで一首せい見山
地蔵のかほのさんど飛脚に京なにはをさへもよほしもの
して矢上の楠のおほきなるまとゐのむしろをひら
きにたりさるハその名もなる瀧の玉なす詞の
いやたかきいやの高橋こなひける雲多楼のあ
るじをもてわかめかるてふさとのあまのおやぢぶん
とはあふぐなるへし此木津上の角力たちにわれ
勝浦といさむもあらん又一言も伝内左衛門降
参をするものもあらんかこゝか言下の八坂八濱な
かなかおかしき見ものにこそいてや此国の名産な
る藍より青き千代の松はらなかくひさしく此会の
うちつゝきなんことをいひて阿波のしまわの島
屋便りに海山ふかきこゝろはかりを一筆啓上の
はしつかたに封じておくりつかはすになん
六樹園飯盛
〇軸物20230723-J1と同じ内容
六々園??ふ号
○六々園??ふ号
おのれ齢??廿はかりのころよりいかで歌よまはやと
おもひて百人一首初山踏古今集打聴同遠鑑伊
勢物語古意なとくりかへし見けるにいかなれハお
のれハ歌よりも尚文章のかたにふかく心ひかれて其
すちの書ともこれかれあなくりもとめつゝ源氏物
語同玉小櫛伴蒿蹊の訳文童諭国文世?跡鈴
屋集なといへるものをもよミて??ひがことを
もかき試けるかのちにハまた日本書紀古事記伝万
葉集なとをもよミけるまゝにふかく吾国のいにしへ
?しぬふこゝろいてきつゝいかて皇国の神の道をも
明らめしらまほしくなりつゝむねと鈴屋の翁の
著ハされたる書ともをよむことになんなりけるされと
ものとふへき人ハさらなり此すちのともとすへき
人たにもあらされハやしのミのたゝひとりのミにて何
?????しくよろづひがことのミそおほかりける
哥ハ鈴屋集の例にならひて古風をも近体をも
長うた短うたともにかつかつ??のしけれと見すへき
人とてもあらされハたゝふかくくしけのそこにひめ
かくしておくのミなりけるを其ころ本居大平翁木
の国若山??のし??よしをきゝたれハやかて名簿
をおく??をしへ子のなかまらにくハゝりつゝ皇国の神の
道をもとひきゝ歌文章なとをも見せて添削
をこふことになんありけるまた狂歌といふものゝ
??ハさらにおもひもよらさりしを文化五年の春
讃岐国へものしける時旅中の日記 袖の家?ト云ふ二巻アリには
???俳諧めきたるをも一ツ二ツよミいれ???いと
興あることにおほえてこれよりハをりにふれことにより
てはたハれたるをもよミいつることゝハなりにたりされ
と狂哥の集なとゝてはたゝひとつたに見たることも
あらさりけるをたまたま林々葉(?)のもとより貞柳の狂
歌置土産狂哥今ハむかしなといへるものをえて
よミけれとたゝこと葉の秀句にのミかゝハりてなかなか
に滑稽の情うすきやうなれハおのれかこゝろにか
なはぬことのミおほくて大かたハよますなりぬさるを
??????なる萃雅堂か江戸より千種庵霜
解の選める狂歌幕之内という書をもてかへりて
見せけるに??かの貞柳なとのよめるふりとハ
いたくかはりておのれがこゝろにかなへるふしも多け
れは此よりハ此幕之内の風調をむねとうつしよ
ミける????おの??江戸の店にて家わさの事と
ともと????へる武兵衛といへるものゝきて金鶏入道
の狂哥闇雲愚抄といへる小冊をみせけるにそいよゝ
江戸の狂哥の?にすくれたることをさとりはた六樹園
??の狂歌のひとりぬけ出ておもしろう興あること
をもいろいろしりそむることにハなりたなり抑此宿
屋飯盛といへる人のことハはやうきゝけることもあり
けれとたゝ安永天明あたりの人とのミおもひ居りける
を今もかくさかりにものし給ふといふことハ此武
兵衛のものかたりにてはしめてきゝしりつゝさらハ此道の
師とたのむへきハ此人ならてハとそおもひなりにける
此武兵衛といふハ狂名花暮雪といひて則六樹園
翁の門人にて其ころ月並の集冊なとにもよめる哥
あまた出てありけれハよきたつきをしもえたる
ものかなとかきりなくうれしくてそれよりハ家わさ
のことにつきてふミつかハすことにハかならすす??此道
のことなとをそとかくゆひやりけるかくて文化六年の
?おのれかよめる歌とも五十首?摘出つゝ蜑のた
く縄くるしか???ば六樹園翁にも見せ給へとて
かの暮雪のもとにおくりつかハしけるにいかなれハ翁
にハ見せず??暮雪のこゝろもてとあらんかくあらん
なとみづから筆加へておこせけるにおのれのおもへるとハ
いたうかハりてたゝ意にかなはぬことのミおほかりけれ
ばまたのとし春ふたゝひ書清めて上書に猿か人
まねとかひしる??いさゝかしりかきをも加へてかの翁
のもとにつかハしけるに翁もうた文ともにいミしう
ほめ給ひておくに
木のほりの高きこと葉にさるもゝの
四国にありとわれさへそしる
とそかきつけておこされける是なん此翁の門にいり
たるはしめにハありけるさて此うたのかへしハかくなん
いひつかハしける
さるものと君の仰せにいとゝわ?
つらも真赤になりてはつかし
是よりハひたふるにかりのいきかいたえすして時々よ
める???をも見せなとしてかの狂歌萬代集作者
部類なといへる集にもあまた加ハることゝハなりたる
?りさて文化九年の春家わさ??ことにつきて江戸
にくたりける時はしめて六樹園翁にたいめして
したしくもの語りをもうちきゝはた著し給へる書
なとも????見ていよいよ此翁の学ひさえのすく
れたる???もしりつ四ますます此翁を信してよ
??ひ聞ことになんありけるさるを同年の六月
はかりにやゆくりなう四国ノ猿人かとふらひきておのれ
に徳島人の狂哥の判せよといはれけるまゝおふけな
けれと徳島にも此道をたとり(あきらめと直す)たる人もあらされハとも
かうもとてひか点をもものしけるより????の門に
いるもの多くなりつゝいくほともなく文化十年の
秋針業右大尽の企にて春日の御社へ卅六人の像
かきたる額をさへ献ることゝハなりたるなりこれより
其一つらを六々連と号しつひにおのれか国の号にも
よひつくることゝハなりたるになむまた鼻垂といふ
名を紀ノ抜足とかへけるも此時にそありける
(概要)
①(春足さんが)幼い時からなんとかして歌を詠みたいと思い百人一首初山踏(ういやまぶみ)、古今集打聴(うちぎき)、同遠鑑(とおかがみ)伊勢物語古意など、更に源氏物語玉小櫛、伴蒿蹊の訳文、鈴屋集、日本書紀、古事記、万葉集などを読むうちに我が国の古代を慕う心が強くなり、皇国の神の道を理解したいと思うようになって、鈴屋の著作を読むようになった。
②しかし師と仰ぐ人はおろか共に語らう友とてなく独りよがりの間違いも多かった。
③歌は鈴屋の歌を参考に、古体、近体の長歌・短歌を作ってみたが見すべき人もなく筺底に秘すだけであった。
④その頃本居大平翁が紀州公に仕えているということを聞き、名簿を送り教え子の仲間に加わり、歌・文章の添削を乞うようになった。
⑤最初の頃、狂歌には全く関心が無かったが、文化五年春、讃岐へ旅をした折、旅日記をつけ、その中に俳諧歌ともいうべきものを二、三首詠んでみたところ、それが面白く感じられたので、それ以降折に触れ(狂歌を)読むようになった。
⑥狂歌集の類いは見たこともなかったがたまたま林々葉(?)という人から貞柳の狂歌置き土産・狂歌今はむかしという本を得て読んだ。それは言葉の秀句(言葉遊びに近いか?)に頼っているだけように思えて滑稽味がなく面白くなかった。
⑦このころ弟の萃雅が江戸から持って帰った、千種庵霜解が撰した「狂歌幕の内」を読むと気に入った歌が多く、以後、この風の狂歌を読むことが多くなった。
⑧江戸の店で家業に携わっている武兵衛というものが金鶏入道(編輯の)「狂歌闇雲愚抄」という小冊をみせてくれ、いよいよ江戸の狂歌がすぐれていると思うようになった。
⑨その中でも六樹園の狂歌が抜きん出て面白く、興あることに思えた。
⑩それまで六樹園のことは安永、天明の頃の過去の人と思い込んでいたが、現在も活躍中と聞き、師とする人はこの人しか居ないと思うようになった。
⑪文化六年、自詠の五十首を選び、江戸の武兵衛に六樹園にも見せてくれと言って送ったが武兵衛は(勘違いして)自分の評を送ってきた。それは甚だ意にそぐわなかった。
⑫文化七年(直接)春、(先の自詠五十首を)清書して六樹園のところに送ったところ、歌・文章ともにたいそう気に入ってくれて次のようなやりとりがあった。
六樹園 木のほりの高きこと葉にさるものゝ/四国にありとわれさへそしる
春足 さるものと君の仰せにいとゝわれ/つらも真赤になりてはつかし
⑬これ以来飯盛翁と手紙のやりとりを盛んにするようになり、時々、自分の詠歌・文章などもみせるようになり、かの狂歌万代集・作者部類などにも多数の歌が入集するようになった。
⑭文化(九)年春、家業で江戸へ出た折、六樹園に初めて対面し、この翁が学才に優れていることがわかりますます信用するようになった。
⑮同年(文化九)六月ごろ、四国猿人が徳島人の狂歌の判をせよと要請してきたので乞われるままに引き受けた。以後次第に同好の士も多くなり、この道をたどるようになった。
⑯文化十年 針業右大尽の企てにより春日神社へ三十六人の狂歌額を奉納することになり以後、このグループを六々連と号し、自分の社中の名ともなった。
⑰これを機に鼻垂を改め、紀ノ抜足と改名した。
花暮雪(武兵衛)について
「武兵衛」は、遠藤家の江戸店で使っていた使用人で、(番頭か?)、春足が狂歌に関心を持つ前から石川雅望に入門し、「花暮雪」という号で、五側の月並の集冊にも度々出詠していたという。次の『新撰狂歌百人一首』は文化六年刊行とあるから春足が飯盛に入門する文化九年より3年前である。花暮雪はこのころから五側の百人に入る活躍をしていたものと見える。
○新撰狂歌百人一首 (文化六年己巳九月発行 角丸屋甚助)
花暮雪 別号 瓊樹園
封しめの/まゝにてかへす/文よりも/ひらけぬ胸を/誰に見せまし
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