狂歌のこゝろえ
〇狂歌のこゝろえ
和歌ハ古の風情なれハ古の雅言をもてつゝり狂歌
ハ今の風情なれハ今の俗言をもてつゝることなれと
其風情においてハ昔も今もかハることなきもの
なれハ是を学はんことハたゝ古歌の意を得るにあ
るなりされハ狂哥をよまんとならハ先ツ三代集古今
六帖新古今集草庵集等をうまく味ひ其古歌を
よくこゝろにしめおきてこと葉にハいかなる俗談平
話なりとも用??へきなりされと其俗談平話
を用ふるにもまた用ひやうのあることなりかの鈴屋
大人の玉霰に皇国風の文章かゝんにハ漢国のことを
かけるにもことハつゝきハこゝのふりにものし字音の詞
をつかふにもつかひさまハこゝのふりにものすへきなり
といはれたるとおなしく狂哥にもいかなる俗言平
話なりともそのつかひさまつゝけさまハすへて和歌の
やうに雅調にこそものすへきものなれされハつか
ひさまいひさまによりてハさしも鄙風たることバいか
さまにたハれたることゝいへともいさゝかも耳????
いとやすらに優にやさしうきこゆるものなり例バ(?)六樹
園翁のうたに
山城の小はたの里の馬ほとに
太鼓をそうつ君を思へは
からうすの音はかりかハお寝間にハ
茶うすもひゝく夕顔のやと
出雲なる神に祈りて逢夜ハゝ
日本国かひとつにそよる
これら甚荒涼の詞なれともいさゝかにもきゝくるしから
ぬを見るさて唐の白香山の詩ハ俗なりとて于鱗
の撰に???された??是俗にして俚ならさるもの
なり狂哥も此俗にして俚ならさるところ肝要な
りとハはやう橘?ぬしもいハれたりまたこの楽天
ハ詩をつくることに必誦して門前の老嫗に聞し
め老嫗のよしといはされハ其集にいれられさりしと
そ今の狂哥をよめるものも此こゝろもちひにて
いかなる賤山かつのきくこともけにもといひてうなつ
くやうにこそあらまほしきわさなれ
*鈴屋大人の玉霰 早稲田大学蔵書目録に「玉あられ」(本居宣長)あり。
○この章段は、春足さんが狂歌を作るに当たって心がけねばならないことを述べた章段で興味深いところである。
○要旨 ①和歌における「風情」、狂歌における「風情」(共にその作品に込められた心情・情趣とでもいうもの)は昔も今も変わらないものであるから、狂歌を学ぶには和歌を学ぶことが大切である。
②狂歌を詠もうと思うならば三代集、古今六帖、新古今集、草庵集など古の歌集をよく読み、歌を心に刻み込み、どんな俗談平話を詠もうとも古の和歌の用語・歌いぶりにならうべきである。
③本居宣長翁が言ったように、例え中国の事柄を詠もうとも和文の用語・文体・字音を用いるよう心がけねばならない。狂歌にも雅調(和文調)をもちいるべきである。
④例えば 六樹園翁の狂歌三首
一首目 下ネタを扱っているにもかかわらず、用語・歌いぶりによって品のある作品となっている。
二首目 古典(ここでは源氏物語・夕顔の巻)の一場面を背景にしながら俗なる話題を詠っている。
三首目 出雲大社は縁結びの神と言われる。その神を念じながら(女と)逢う夜は、神無月に日本中の神が出雲に集まるように一つになることが出来る、と詠み、やはり俗のことを詠いながら雅な歌になっている。
いずれも「荒涼」とした風情(俗な風情)を詠んでいるが下品な感じはしない。一首目の内容については六々漫談「狂歌のこころえ」参照。
⑤白楽天の詩が俗にして俚ならざるものであったと同じく狂歌も俗にして雅に感じられるものでなければならない。(後述の画像:P2102234とあわせ読むとよくわかる)
コメント