書冊(版本・狂歌集・自筆稿本等)

六々園漫録 第一巻

山東京傳醒々老人又山東庵と号す…

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102236

山東京傳醒々老人又山東庵と号す東都京橋のほ
とりに住すおのれはやうより江戸にものすることに必と
ふらひゆき?年ころのしり人なりさるをことし
文化十三年九月七日ミまかりけるよし五老翁のもとより
せうそこのついてにいひおこせたりさて此翁没後其家
弟京山百樹翁か年ころもちならしたる文机を浅草

に埋てはやう翁の自ものしゝ文机の記を石にゑりて
建たり碑陰にハ太田南畝翁の文をしるしたりともに
紙ハ今日たるを五老翁のもとよりおくりおこせ給ひ
けれハ今こゝにしるせり
   明和六年といふとしの六月はかり齢九歳とい
   ふに師のかとにいりたちていろはもし習ひ
   そめし時親のたまハりしふつくゑなむ此
   つくゑにハありけるをさればつくりさまもお
   ろそかにてミやひたるかたハ露もなけれとはふ
   ?し捨すとしころのたのもし人にてか???

*最初の一行は前ページの最初の行が映ったもの(本ページ最初のところが紙が切れています)

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102237

   をさらすひとり愛つゝあり?し年??
   にちかく何くれとつくれる冊子百部をこえ
   たりそはおのかこゝろたましひもほれほれしう
   まなこ(?)もかすミゆくにいつしかこれもたしろき
   がちにうちゆかミなとして???に老しも
   らへるさまなるはあハれいかゝハせむ
   耳?そこねあしもくしけてもろともに
   世にふる机なれも老たり
              山東庵京傳
   文化十四年丁丑春二月

【要旨】①山東京傳・醒々老人、又、山東庵と号す。江戸・京橋のほとりに住す。②自分(春足)は前々から江戸に行く度に必ず訪問し、長年の知己であった。③ところが「今年(文化十三年1816)九月七日死去した」という知らせを石川五老(雅望)翁からいただいた。④京傳翁の没後、弟の百樹翁(山東京山)がこの机を浅草寺に埋めて石碑を建て、表には京傳翁が生前書いていた「文机の記」という文章を、裏には京傳翁の友人・大田蜀山人が書いた文章を刻んだ。⑤共に紙は今のものであるがこれは石川雅望翁がその写しを送ってくれたものである。

大田南畝の撰による京伝の略歴(漢文)

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102237(同上)

翁諱醒字酉星号醒齋又号山東庵称伝
蔵以其所居近京橋一字京傳故為京傳
最著磐瀬氏其先出自磐瀬朝臣人上近世
資詮者仕太田道灌為謀臣道潅亡世隠於勢
州一志祖信篤考信明志某侯多病辭仕隠於
東都市娶大森氏生翁及百樹翁少好稗
史小説数百著作日富戯文幼説謬恣無根
能令人悲能令人喜坊間書賈進於剞劂
者利市三倍於是児童走?莫不知京傳
者晩悔少作無益於世改???刻苦捜??

撮影:徳島県立文書館 / 画像:P2102238

秘者近世奇跡考及び骨董??????
奇談逸事考拠精確可以補?史矣文化
十三年丙子九月七日没歳五十六葬国宝山
回向院弟百樹埋翁幼時写字案於浅草
寺中柿本祠側以遺財建刻翁国字記
使予記碑陰予識翁三十余年似放浪而
實??孝友天至過於所聞因題斯言以告
後之読其書而不知其人者?
  文化十四年丁丑春二月
     江戸南畝覃撰

*剞劂 彫刻刀や鑿のたぐい。(大字源)
*山東京伝及び机塚碑について 山東京伝は多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者です。また、北尾政演の画号で浮世絵師としても著名な人物でした。晩年は故事古物の考証にも精力をかたむけ、文化13年(1816)9月に56才で没しました。
 山東京伝机塚の碑は、高さ143センチメートルで本小松石(神奈川県真鶴産)を用いています。京伝の没後、弟の京山が造立したもので、表面には京伝が生前に著した愛用の机についての小文を刻み、裏面には京伝の友人であり、当時を代表する文化人でもあった大田南畝の撰による京伝の略歴を銘記しています。本碑は、京伝の経歴や人間性を知ることのできる貴重な歴史資料のひとつです。(台東区教育委員会)所在地 台東区浅草2-3-1
*P2102236の文章によれば、春足は江戸へ出る度、必ず山東京傳を訪問していたそうである。遠藤家に京傳の書いた物が多数残されているのはそのためであろう。「文机塚」(碑文表京傳自筆、裏面蜀山人撰漢文)は今も浅草寺裏手に残っている。「文机」については井上ひさし氏が『戯作者銘々伝』・山東京山の項で面白おかしく描いているので参照ありたい。

両国・回向院境内にある岩瀬醒(山東京傳)の墓
右は弟百樹(山東京山)の墓

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