六々漫談

『雅言集覧』(石川雅望著)と遠藤春足の関係

雅雄の遠藤家逗留 雅言集覧序文本居大平へ依頼の件を頼む

2-12-2 石川雅望書簡 文化13年?6月29日付け

此の節、雅雄事、讃州より御地へ罷り出で候よし、さぞさぞ御厄介と存じ奉り候。かれは元来上州高崎の住人にて、確かなる者にこれあり。少々禄(?)をつかひ過し候とて老母がこらしめ候とて江戸へ出し置き候。随分正直なる奴にて候。此の方、盛砂方へ文通いたし殊の外御世話に相成り候趣、吹聴申し来り候段、盛砂より承り、私においても感謝奉り候。

抜六 ここで突然、雅雄という人物が出てきますが、この方は雅望の弟子である盛砂の弟子、つまり孫弟子に当たる人です。

 書簡には「最近(桐)雅雄が讃岐からお宅へお邪魔した由、さぞ御厄介かけていると思う。彼は上州(現在の群馬県)高崎の出身で身元確かな者です。給料を少し使いすぎということで老母がしつけのため江戸へ出しております。このごろ盛砂へ手紙をよこし、春足さんのところで随分世話になっているということを知らせてきたそうです。私からも感謝申あげます。」とあります。

遠藤 孫弟子ということもあるのか、なんだか子ども扱いされてるような感じですね。

抜六 それもそのはずです。雅雄くんは寛政6年(1794年)生まれだそうですから、春足さんの十二歳年下、雅望の四十一歳年下ということになります。

遠藤 なんと、それは雅望からすると本当に孫のようなものですね。ところで、この雅雄くんが雅言集覧とどんな関係があるのですか?

抜六 実は大ありなんですよ。それが次の書簡に出てきます。


2-12-3 石川雅望書簡 文化13年?10月12日付け

雅言集覧当年中にイ・カ篇、先に出し候つもりにて、司馬園事、骨を折り候。如何可有候や(この六字不明)ついては序文の事、大平大人に御たのみ申すべきやの事、雅雄より内々に申し来り候。これは何様然るべき事にて候。もし出来いたし候事ならば御恵(二字不明)御願下さるべく候

遠藤 えーと、「雅言集覧は今年中にイ・カ篇をまず出すつもりで」とありますが、このイ・カ篇ってなんですか?

抜六 これはイロハ順に並べたときのイからカまでということですね。

遠藤 あっ、そうか。雅言集覧は古語辞典のようなもので、当時はいまのような「あいうえお順」ではなく「イロハ順」ですもんね。だから、辞典でいうところの索引が「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ・る・を・わ・か」の項までを出版するつもりだってことですね。

抜六 そのとおりです。続きを読んでいくと「司馬園事、骨を折り候」、これは「司馬園が骨を折っている」という意味ですが、この「司馬園」は盛砂のことですね。

遠藤 1つ前の書簡で雅雄くんが手紙を送っていた方、雅雄くんのお師匠さんですね。

抜六 そうですね。そして「ついては、雅言集覧の序文を大平大人(本居大平)に頼んではどうかということを雅雄から内々に言ってきた」と続きますが、ここでまた雅雄くんの名前が出てきていますね。

 雅雄くんはこの時点でもまだ遠藤家に逗留しているんですが、雅雄くんは春足さんが本居大平の門下生であることを聞いて、雅言集覧の序文を春足に仲介してもらって大平に書いてもらってはどうかと内々に連絡してきた、ということだと思います。

遠藤 なるほど。雅雄くんの提案で、本居大平に雅言集覧の序文を書いてもらう流れになったんですね。

抜六 書簡の続き「これは何様然るべき事にて候」は、前後関係から言って「願ってもないことです」くらいの意味で、最後に「もし出来ることならば是非大平に頼んで欲しい」となります。

遠藤 雅雄くん、1つ前の書簡では子ども扱いされていましたが、なかなかいい提案をしてくれましたね。

抜六 はい。この提案がなかったら大平の序文も、また以後の雅望と大平の接触もなかったでしょうね。

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