短冊

飯盛・雅章の狂歌短冊(二葉)、細川幽斎?・烏丸光広の和歌短冊(二葉)

撮影:四国大学 / 分類:右から手鑑4-3-1、4-3-2、4-3-3、4-3-4

夜さくらを見にこよとてか山寺の
あしおとすなり馬にくらやみ  飯盛

 山家月
さかれてもにこるこゝろをいさめてや
山した水に月はすむらむ    雅章

(極書)
細川二位法印玄旨(?) たきすさむ
 炉火
たきすさむ夜はのなこりをうつミ火と
たのむもよりき影となりつゝ  玄?

(極書)
烏丸光広卿 龍田河
龍田河にしきをりける(?)神無月
しくれの雨をたまぬきにして

語注・気付き

4-3-2 藤原雅章 狂歌短冊
*雅章 正二位藤原雅章

4-3-3 細川幽斎?和歌短冊
○細川幽斎か?「二位」、「法印」が該当。細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) 長岡 藤孝(ながおか ふじたか)長岡 幽斎(ながおか ゆうさい) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。幼名は熊千代(くまちよ)。元服して藤孝を名乗りその後長岡に改姓。雅号は幽斎。法名を玄旨という。なお幽斎は1573年に長岡に改姓し、1582年に幽斎を名乗り、細川姓に復したのは幽斎死後の忠興の代である。
初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。(wiki)

4-3-4 烏丸光広和歌短冊
*烏丸光広卿 江戸時代初期の公卿、歌人、能書家。

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