短冊

木下長嘯子・綾小路黄門俊景卿 和歌短冊(二葉)

撮影:四国大学 / 分類:右から手鑑4-1-1、4-1-2

(極書)
異山長嘯 うらやまし 題有名
木下若狭少将豊臣勝俊 号長嘯 川勝宗久極?
 切恋
うらやましき?かへる?よそれもまた
いとふつらさとかけし一こと     長嘯

(極書)
綾小路黄門俊景卿 しらさりき?
しらさり地(き?)雪ゐのよそに見し月も
影をたもとにやとすへしとは

語注・気付き

4-1-1 うらやましき?かへる?よそれもまた/いとふつらさとかけし一こと 長嘯
*「き?かへる?よ」は「き?かへかろき?」かもしれない。
*木下勝俊 永禄12年(1569年)~慶安2年6月15日(1649)、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。後半生は隠士として歌を詠み、歌人としては木下長嘯子(きのした ちょうしょうし)の名で知られる。
初め龍野城主で、次いで若狭小浜城(後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」と伝わる。
若き日より豊臣家の大名として従軍するなかでも、細川幽斎に歌を学び、秀吉の文事に参加し、自ら歌会も催した。関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将であったが、敵前逃亡して京都に身を隠す。これは後に至るも非難されるが鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果との説もある。
役後に改易、叔母の庇護をうける。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲した。
長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、歌集にも用いられた挙白(きょはく)の他、天哉爺(てんかおう)など様々の号を用いる。
歌人としては地下派の雄として自由で大胆、古語も俗語も無雑作に扱い誹謗もあったが新しい風を吹かせ、幽斎門下では松永貞徳と並び称される。貞門だが松尾芭蕉は長嘯子への憧れがあり、国学の学統では契沖に繋がる下河辺長流も支持をした。堂上歌壇の総帥である後水尾院もこの人物よりの評価を気にかける様子を伺わせている。(wiki)

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