掛まくもいともかしこき
天皇の天つ日嗣の高御座を
高ひかる太子に譲り賜ひ
授け給ふとのらし給ふ大御命
のまにまに後桜町院の大野(座?)ましゝ
御殿を又さらにおほたくみ
ともつかへまつりていや高に
いや広に仕へまつれる此大宮
にことし文化十四年といふとし
の三月廿二日に御うつろひの
大幸行ありときゝ奉れるま
にまにまゐのほりてその日の暁
より大宮のへの大路のかたはら
にうすくまりをりけふのいく
日のたり日の朝日の?さか
のほりに大鳳輦かゝやき御さ
き御しりへに百司の大宮人
ゆきつらなりてわたり給ひ
つかへ給ふ其大幸行をを
ろかみ見奉りて
現神わかおほきみのいてましを
いはひをろかみ見らくかしこし
ひきわたるいたしくるまの下すたれ
小簾のたれすのうるはしくもあるか
ものゝふの六司はをゝしくも
御弓とりもち靫とりおはす
大中少とみつのものまをす
つかさつかさもいならひゆかす
鳥かなく東堅子のひあふきの
よそひの紐は土にたりたり
天下まをし給はす大臣も
つかへまつらす大幸行はも
御尾前にやかはえなして宮人の
みともつかふる見るかたふとさ
本居清島
語注・気付き
*東堅子 宮中に奉仕した少年(コトバンク)
*本居清島 国学者。通称左衛士。大平の次男。父の意を承け古学を修め、大成しようという時に父に先だつ。著書に『竹の小家』家集『清島集』がある。文政4年(1821)歿、33才。(コトバンク)
○文化十四年三月二十二日に行われた光格天皇の新御所への幸行(光格天皇から仁孝天皇への践祚は文化十四年九月二十一日)見物記。
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