当時変宅西洞院
丸太町上ル町西側ロジニ
居申候
九月朔日出之御状
同八日相達拝見
仕候如示秋冷相催
御節弥御安類奉
賀候然は先頃十
丈より御頼之事又々
此度委細被?御遣
?手前仕候御??出申候
乃口上書にて相わかり
申候則任命巻首
之狂詩二首心にて
版下タ之一紙ニ認さし
上候是にても不苦や
狂詩ハほんのてんかう
ものにて別段江戸
狂歌宗匠なとの
よふに一種たてゝものニて
無之御座候??之
詩文?仕候事故是ハ
?御迷惑?存候へ共
折角遠方御頼
ゆへこしらへみ本?
外ニ扇子二本御遣候
是又近作認申候半せつ
唐紙ハ?????而
右狂詩認上申候
先用事而已御?
早々如斯御座候 已上
中島文吉
九月十日
遠藤宇治衛門様
語注・気付き
〇中島 棕隠(なかじま そういん、安永9年(1779年)~安政2年6月28日(1855年8月10日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人・狂詩作家。名を規(まどかき)・徳規(よしのり)、字を景寛(けいかん)、号を棕隠軒・棕隠・棕軒、通称は文吉、別号を画餅居士・因果居士・水流雲在楼主人など。狂詩作家としては安穴道人(あんけつどうじん)の号を用いた。諡号は文憲先生。
十代で祇園周辺の風流を詠んだ「鴨東竹枝」を作って評価を得るが、家風に反すると批判され家を飛び出し十年にわたって各地を転々・・・。(wiki)
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