書簡

宇治右衛門宛て中島文吉(棕隠)書簡

撮影:四国大学 / 分類:手鑑3-17-1

当時変宅西洞院
丸太町上ル町西側ロジニ
居申候

九月朔日出之御状
同八日相達拝見
仕候如示秋冷相催
御節弥御安類奉
賀候然は先頃十
丈より御頼之事又々
此度委細被?御遣
?手前仕候御??出申候
乃口上書にて相わかり
申候則任命巻首

撮影:四国大学 / 分類:手鑑3-17-1

之狂詩二首心にて
版下タ之一紙ニ認さし
上候是にても不苦や
狂詩ハほんのてんかう
ものにて別段江戸
狂歌宗匠なとの
よふに一種たてゝものニて
無之御座候??之
詩文?仕候事故是ハ
?御迷惑?存候へ共
折角遠方御頼
ゆへこしらへみ本?
外ニ扇子二本御遣候

撮影:四国大学 / 分類:手鑑3-17-1

是又近作認申候半せつ
唐紙ハ?????而
右狂詩認上申候
先用事而已御?
早々如斯御座候 已上
     中島文吉
九月十日
遠藤宇治衛門様

語注・気付き

〇中島 棕隠(なかじま そういん、安永9年(1779年)~安政2年6月28日(1855年8月10日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人・狂詩作家。名を規(まどかき)・徳規(よしのり)、字を景寛(けいかん)、号を棕隠軒・棕隠・棕軒、通称は文吉、別号を画餅居士・因果居士・水流雲在楼主人など。狂詩作家としては安穴道人(あんけつどうじん)の号を用いた。諡号は文憲先生。
十代で祇園周辺の風流を詠んだ「鴨東竹枝」を作って評価を得るが、家風に反すると批判され家を飛び出し十年にわたって各地を転々・・・。(wiki)

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