書簡

六々園宛て五老書簡 春足の御文章一覧御上達少なからず 「ひさう」という言葉について回答 梅園日記について

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-38-4

御強健察居候御文章
一覧扨々御上達感心
不少奉存候即返上仕候
  ひさう
非常にて御座候
梅園日記いまた出来不仕
かの仁の癖ニ而はたし
不申候
短日何も早々申上候以上
十一月三日  五老拝
六々園大人

語注

*梅園日記 かの仁 (wikiに次の記述あり)

北 静盧(きた せいろ、明和2年(1765年) – 嘉永元年3月29日(1848年5月2日))は、江戸時代中期の民間の学者。本姓は鈴木。名は慎言(ちかのぶ)。字は有和。通称は三左衛門(三右衛門)。静盧(精盧)の他、梅園、四当書屋、網破損針金という号がある[1]。
略伝と逸話
生家は江戸新橋の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。狂歌を元木網に、国学を山岡浚明に学ぶ。江戸深川に住し、博覧強記をもって村田了阿と並称される[2]。行年83。西久保巴町の天徳寺に葬る。
町人の学者として、狩谷棭斎(津軽屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される[注釈 1]。貧しい生計を立てながら酒は一滴も飲まず、暇さえあれば著述の筆をとったという。火事で三度も著書を焼き、改めて稿を起こすと前のと少しも違わなかったとも伝えられる[4]。彼の性格については、喜多村信節が「お祭りを見るのが好きだった」と書いている。

この御仁に該当するか。「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」参照。

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