書き物

遠藤萃雅(春足の弟)墓碑銘原稿 菊池五山撰文 菊池五山書

以下の翻刻・訓読・コメントは徳田武氏のご教示による。二〇二四年一月一八日

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-35-1

君姓遠藤、名昂美、字子喬、称雄藏、堂
曰萃雅、亭曰春色、綾屋、昂斎。皆其別號。
而特以萃雅著。阿波石井人、父名春正、母
多田氏、其兄春足、舊受國学於伊勢本居
大平、自能成家。君資性絶俗、不屑作業、
風流蕭散、惟意所適、最耽画事。年十八、
始赴江戸、就木芙蓉而学、既又遊谷文晁
之門、前後六七年、極得其法。谷嘗語人曰、
海内画人、不堪斗量、某曰善人物、某曰善
山水、非不善也、能免市気者、佰無一二、獨
萃雅於画(之画)、雖不見偏長、到其脱俗處、寔
不愧古之名手矣。此言亦可以(併)想見其為人也。
生平處世、毫無自衒之意、退怯隠黙、如
不勝事、以 逸才奇趣、人莫能知之。頗有王
汝南之風、又愛國歌、其篇什頗多超脱
者。蓋藉家兄薫陶之力(益)也。其在江戸、自製
一帖、遍訪名流、乞書若画、自命曰萃画帖。

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-35-1

鵬斎亀田翁為序之。歸(還)家之後、晨夕展翫、
以為一適。既而罹疾、累歳不愈、以文政四年
丁巳正月十八日歿。享年三十有二。臨終猶手(握)
萬葉集、巻纔離手、気息便(方)絶。其(雅量)従容如
此。不娶無子。葬于同郷徳蔵寺、先塋之次。
法謚曰秀山義恭。春足(深哀其死)、状其
行事、遠来謁余銘。銘曰、
其性如水、其藻如雪、(水逝雪散)雪消水逝、始歸其真。
           五山池桐孫撰

訓読

君は姓は遠藤、名は昂美、字は子喬、雄藏と称し、堂を萃雅と曰ひ、亭を春色と曰ふ。綾屋、昂斎は、皆其の別號なり。而して特に萃雅を以てあらはる。阿波石井の人、父は名は春正、母は多田氏、其の兄春足は、と國学を伊勢の本居大平に受け、みずから能く家を成す。君は資性 俗を絶ち、業をすをいさぎよしとせず、風流蕭散、惟だ意の適する所、最も画事にふける。年十八、始めて江戸に赴き、木(鈴木)芙蓉に就きて而して学び、既に又た谷文晁の門に遊び、前後六、七年、極めて其の法を得たり。谷かつて人に語りて曰く、海内の画人、斗量(評価)に堪えず、某は人物を善くすと曰ひ、某は山水を善くすと曰ふ、善くせざるに非ず、能く市気を免るる者は、ひゃくに一二も無し、獨り萃雅(於画)の画は、偏長を見ずと雖も、其の脱俗の處に到りては、まことに古の名手に愧じず矣と。此の言亦た以て其の人となりを想見すべしと。生平 世に處する、毫も自からてらふの意無く、退怯隠黙、事にえざるが如く、逸才奇趣を隠す(?)を以て、人能く之を知ることし。頗る王汝南(晋の王たん。異能有るも、これを隠して現わさず。『世説新語』賞誉、十七)の風有り。又た國歌(和歌)を愛し、其の篇什頗る超脱なる者多し。蓋し家兄の薫陶の力(益)をるならん。其の江戸に在るや、自から一帖を製し、あまねく名流を訪ひ、書しくは画を乞ひ、自から命じて萃画帖すいがじょうと曰ふ。鵬斎亀田翁為めに之に序す。家に歸(還)るの後、晨夕展翫して、以て一適と為す。既にして疾にかかり、累歳えず、文政四年丁巳正月十八日を以て歿す。享年三十有二なり。終わりに臨みて猶お萬葉集を手(握)にし、巻纔かに手を離るれば、気息便すなは(方)ち絶ゆ。其の従容しょうよう(雅量)たることくの如し。娶らざれば子無し。同郷の徳蔵寺、先塋の次に葬る。法おくりなを秀山義恭と曰ふ。春足(深く其の死を哀しみ。痛慼の情、自ら過ごすこと能はず)、其の行事を状し、遠く来りて余に謁し銘を(「乞」が脱か)。銘に曰く、其の性は水の如く、其の藻(文藻)は雪の如し、(水逝雪散)雪消え水逝き、始めて其の真に歸る。五山池桐孫撰

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これに拠れば、遠藤春足の弟の萃雅は、文化五年(一八〇八)、十八歳で江戸に上り、六、七年の滞在中、名家の書画を乞うて蒐集し、萃雅帖を編纂した、という。とすれば、現に遠藤家に遺されている書画の多くは、萃雅によって齎されたものである可能性が強い。勿論、春足も石川雅望の弟子であった以上、自身、江戸に上った際に蒐集した事もあったであろうが、彼よりも萃雅の方が江戸に在った期間が長いようだから、萃雅の蒐集量の方が多かった可能性が高い。その意味で、萃雅はもっと顕彰されて良い人物である。なお、括弧内の部分は、五山の推敲前の文字であったり、徳田の注であったりするから、注意されたい。五山の原文に朱筆で手を入れている人物は未詳であるが、五山以外の人物の可能性もある。とにかく、遠藤家の膨大な資料群の内でも、その成立の由来を語るものとして重要な資料である、と愚考する。

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