一曲亭君御帰国ニ付
御伺申上候御安康御由
大慶仕候扨種々被仰聞候
趣逐一一曲亭君へ申上候
御聞可被下候
一雅言四の巻先達而御さし立候
一百人一首此度十部上候
一部代銀四匁ツゝ也
一扇面二本清澄画賛一
曲君へ御わたし申上候
一針業詠艸とくさし立候
紙扇面一曲君へ御わたし申候
一水滸いまた不?之よし終
之巻紛失ニ付此節すらせ
候事あとゟ上可申候
繁多ニ付用事のミ申上候
南畝清池両人共死去
いたし候何も早々申上候以上
五月六日 五老
六々園大人
語注
*一曲亭 一曲亭歌男(以下の画像参照)
気づき
○①一曲亭江戸下向 言付け物多々あり ②雅言集覧四の巻送った ③(狂歌阿淡)百人一首十部送った 一部代金 四匁(金一両銀六十匁今の十万円とかんざんすれば約六、七千円) ④清澄画賛扇面二本一曲亭へ預けた ⑤針業詠草とくさし立て(とっくに送り?)紙扇面は一曲亭へ預けた 水滸後ほど送る 南畝・清池死去
○太田南畝死去は粕谷『石川雅望研究』によれば文政六年(1823)四月六日のことである。同書p281「○太田南畝の葬儀に参列しなかったことを批難される」の項目に「ただ雅望側に南畝の死に関して、何の記録も残っていないことに不自然なものを感じる」とある。粕谷氏はこの書簡を見ていなかったか。この書翰では「南畝、清池死去致し候」とあるだけで他人ごとのようである。南畝の晩年に至って雅望との間には何か確執があったのだろうか?
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