書簡

六々園宛て五老書簡 新年被物として金一方受納 雅言集覧後篇の催促 雅言集覧初篇三百部摺り二百部売れた 残りも売り切りたい 雅言集覧当年中にちりぬるまで刊行したい 柳之御作 狂蝶子春興帳 文章の規範 その他

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-22-1

正月十六日之貴翰到着
披閲仕候御壮健ニ御座被成
大悦仕候然は新年御被物
として金一方御授被成下
毎度御念入られ候御厚情之
段可奉謝様無之忝奉存候
雅言集覧後篇とりいそき
差出し候やう御??被下承知
いたし候此方ても其意ニ有之候
しかし初篇三百部も
売捌不申候而はあとニかゝり
候事相成かね候二百部
ハみなみなかたつけ今百部
のこりなく売捌たく存居候
御心かけ被下しるとしらぬとの
差別なく御すゝめ可被下候何卒
当年の中ちりぬるのくだり
出し申度心かけ居候
正月は貴地大雪のよし江戸も
初春三日ゟ四日五日と打つゝき
珎らしき雪ニて屋根なとも

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-22-1

二尺斗ふりつもり候事にて候
しかし此節は春暖相催しやうやう
さくらなともほころひかゝり候
柳之御作会集の後ニ相届
候ニ付当二月十三日宿之初会
ニ披講仕り候御短冊数多候而
御すきの程皆々感入有かた
き事ニ御噂申候
狂蝶子春興帳此節板行?
出来候もはや御地へ為登(?)候哉ニ
奉存候
御文章御みせ被下よろしく
出来筆を入候所も無之候へとも
遠方被遣候事故拝見いたし候
しるしにいらざる筆を加ヘ候へ共
実ハもとのまゝニて不苦奉存候其
中古学者めかざるやうニ御認被
成たく奉存候いつとても延喜より
一条院の比までの文章を御う
つし取被成かたよろしかるへく候
天子の御うへを申候ニも古今序
にならの御時よりそ云々桐壺に亭
子院のうせ給てうたの帝の??
延喜の御年より云々なとの類や
すらかによろしくおほへ候伊物

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-22-1

に田むらの御時水尾の御時の
やうにありたく存候
鈴屋大人の世にいてまして
此ましてと申詞例之古学者ふり
かと存候
いかにおもしろうめつらしき詞の花や
咲いつらん
コレハ上にいかにと申詞あれば詞の花
の咲いつらんにてよく候べくとおほへ候
のにてもよろしくや
文政の二年といふとしのとて
これら尚歯会の席なとニも例見へ
候へ共貫之の序ニ見へ候延喜五年
四月十八日といふやうにかき候方よろ
しくおぼへ候
梓にのほし給はんをり
から国に上梓と申詞候へ共此国
の詞としてハ梓にのぼすハ木のぼ
りでもいたすやうに聞へ候
をしへ子
これもふるく聞なれぬやうニおほへ候
例有之候ハゝ御書つけ可被下候
〇雅言集覧三ノ四十丁
とより源うめかへたへにおかしきをハ
とよりてこそかき??人々ありけれと
 案するに???をよるに同く??

撮影:四国大学 / 分類:手鑑2-22-1

此案するにと申説ハ文丸かさかし
らに書加へ候事ニて甚よろしからず候
細流抄の説の外へよりてなり上古を
ば?うよりてといふ也と申説よろしく
有之候仍而再のすり本ニあらため
申候此本も御なほし置可被下候
さてついでなから申上候
右雅言集覧出来之節十月
初旬紀州本居氏へ一本贈り
遣し候慥ニ相届候趣は若山
医師西川玄湖子ゟ申来り候
しかるに其後大平子より一向に
返書も不来候いかなる訳にか
所存之程しれ不申不審致
候事ニて候
いつとてもとりこみ居り候間
早々御報申上候くれくれ御文章
は御草稿のまゝにてよろしく
おほへ候猶?日可申上候以上
二月十九日      五老
六々園大人

語注

*細流抄 源氏物語の注釈書。永正七年1510~永正十年1514の成立とみられる。(wiki)

気づき

○内容概要 ①新年御被物として金一方受納 ②雅言集覧後篇差し出すよう(後篇を早く出せという意味か?)催促があったが初篇三百部出板して売れたのは二百部。このままではむずかしい。残り百部を売り切りたいのでご協力願いたい。③当年中に「ちりぬる」まで出板したい。④「柳之御作(春足の作品か?)会集の後に届いたので次、二月十三日の初会で披講するつもり ⑤狂蝶子「春興帳」板行。届いたと思う ⑥(春足が文章の添削を依頼したか)直すところもないのだが敢えていうと、と前置きがあって「中古学者」のような文章は書かない方がよい、延喜・一条院の頃までの文章を規範とせよ、(例示)「鈴屋大人の世にいてまして」の「まして」(尊敬)という言葉は中古学者めいてよろしくない。「文政の二年といふとしの」これは「文政二年」でよい。「上梓することを「梓にのぼす」という言い方は猿が木登りするようでよろしくない。
○中古学者 中古は文学史上でよく用いられる時代区分。平安時代をさす。中古の文学を研究している学者に対する呼び名か。雅望には中古学者に対する強い反感があったようである。それには本居一派のような国学者も含まれるものと思われる。
○雅言集覧を一冊、本居大平に贈り、確かに着いたという他の人の証言もあるのに何の返事もないのはいかなる訳かと不審を募らせている。この件については、粕谷宏紀著「石川雅望研究」p260 に詳述されているので参照。
○同書よりこの書簡の日付けは、文政三年(一八二〇年)とわかる。雅望六十八歳、春足三十九歳。

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