九月廿七日出之貴書十月
廿七日拝見先々寒冷日
増相募候処御壮健御由
奉察居候蜀山人墨跡
到着仕由安堵仕候其後
万代集一部八丁堀なる
阿波やへ差出し候此節相届
候や
源注余滴おほかた校合いたし
候へ共今少々骨をりいたすへく
奉存候それよりさきに
雅言集覧と申物出し可申
と存候これは多年見るに随ひ
諸書より同語をぬき出し置候
文章かきならひ候人のために
益も可有之也此節これを校
正いたし罷在候
新作の狂歌集出来候節
御詠加入いたし候事承知仕
罷在候占正方へ御状早々相
届申候
蜀山人醜婦の賃?に三平
二満の事御尋被下候これは
東坡の詩ニも有之禅録なと
にも有之事とおほへ候あとゟ
書つけて可奉呈上候今朝急ニ
八丁堀へ幸便有之いそき
申上候御詠藻返上仕候くれくれ
家内一同よろしく申上候やう
御座候 謹言
霜月朔日 六樹園拝
雲多楼大人
語注
*蜀山人墨跡 現在、遠藤家には蜀山人墨跡が数点残されている。
*万代集 『万代狂歌集』(宿屋飯盛撰 文化九年刊)
*三平二満(さんんぺいじまん) 「二」は数の少ない意。三でも平安、二でも満足の意からか、満たされない状況にあっても心が平安で満足していること。(日本国語大辞典:小学館)
*八丁堀なる阿波や 藍商としての遠藤宇治右衛門江戸店が阿波屋吉右衛門名で八丁堀三丁目にあった。
*雲多楼 遠藤春足の狂歌名。
気づき
〇この書簡、粕谷宏紀著『石川雅望研究』」p207に「雅言集覧と申物出して~此節これを校正いたし罷在候」の部分が引用されており、解説部分に次のようにある。
右は徳島の遠藤家蔵のものである。後年春足の尽力で紆余曲折を経て『雅言集覧』は陽のめをみるのであるが、右の文面からすでに文化初年ごろより執筆にとりかかっていたことが分かる。また同書を古語の辞典ということだけではなく、文章を書くための「ことばの手引書」という性格を持たせていたことがうかがえる。
以上の記述から粕谷宏紀氏が遠藤家のこの文書をすでに見ていたことがわかる。ただし雅望の書簡を全部見ていたかどうかは今後の調査による。
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