栴檀といふ木は二葉のほとよりそのかうはしさあたし
木にはこよなうまさりたりとか今はむかし江戸の
三枝ぬしまた総角のころ此石井の里なるしぞくの
ぬしのもとにき給ひて三とせはかりもとゝまりゐ給ふ
ことありけりおのれとは家ちかきのみかは齢のほともひ
としけれハあけくれかたみにいきかひつゝあるは竹馬はせ
あるはかくれあそひなとして遊ひけるにいかなれハ何わさに
もよのつねの童にはいミしうすくれ給ひて我ともからなど
らうたぐ?(御?)いつもいつもまけわさのミしけれハいとねたうくち
をしきことにそおもひたるを東にかへりたまひての
ちは何くれとうちまきるゝことのミありてひさしくせ
うそこもせてあまたとしへにけるを此五とせ六とせかほ
とわがともからの人々大江戸福廼屋内成といふいみしき
すくれ人こそいてきたれとにしにひかしにのゝしりさわきて
翁の月ことの歌合なとにもたゝその名をきゝては鬼神
なとのやうにおそれわなゝくことたとへハ昔千万の軍
人の中へわれこそ加藤のなにかしなれおのれこそ福島のそれかし
よなどなのりして出たるにことならすなむおのれもあまりにい
ふかしきことにおほえけれハこはいかなる人にかと翁のもとへ
とひきこえけるにこれすなはち三枝ぬしのことなりとてつ
はらにことのよしをいひおこらせ給ひぬむかし童あそびせし
ほと何わさにもあやしきまてぬけ出ておはしけること
なと今おもひ出れハいはゆる栴檀の木のたくひにはありけ
らしそもそもかゝる人のかゝるところにしもうまれ出給ひ
てかゝる翁にしもしたかひ学ひなむには天の下のあされ歌
よむ人たれかはたちならふものあらんやされハこその春より月
ことのまうけ題をいたしてあまねくもろ人のあされ歌を
つとへ給ふ遠近よりよミ出る歌月ことに七千にもあまれ
りとそかくまてみさかりなることはいにしへにもためしあ
ることをきかす『くしの後の世おそるへしとの給へるかうさ
まの人のうへにこそとあさみおとろくこと大かたならずなむ』
さてその中ことにすくれたるを撰出たまひてそれか名を
狂哥早引節用集とそつけ給ひたるけに四季より恋雑に
いたるまてことことくいろはのかむなもて類をわかつことよ
のつねの節用集にことなることなしよのあされるよむ人々
つねに文机のかたはらにおきてたよりとセハこれにまし
たる宝やはあるへきそのはしめてものし給へる書
かくのことし今よりのち猶いかなるめてたき書をか著
はし給ふへきわれゆくゆく是を見むことをねかふになむ
六々園のあるし春足
語注・気付き
*本文中『 』の欄外に「此間の文欠くへくやほこりかなやうに聞へ候」(この間の文章は削除した方がよい。なんとなく自慢しているように聞こえるから)」と書き込みあり。
*くしの後の世(生)おそるへしとの給へる 「くし」とは孔子のこと。春足は論語の「後生可畏」を「後世(後の世)おそるべし」と記憶していたようだ。それを雅望は「後生(後から生まれてくる者・若者)と添削している。やはり雅望の教養は本物であったことがわかる。
*狂歌早引節用集 福廼屋内成(編)、岳亭定岡(画) 節用集の分類に準じて狂歌の主題を「イロハ分け」、并びに「十三門」別に配列して狂歌とその作者を列記した書。全七巻二冊。(立命館大蔵書)
○春足さんのおさな友達、三枝くん(都会からの転校生)が後に福廼屋内成を名乗り、「狂歌早引節用集」という本を出すまでに出世したという話。文中の『狂歌早引節用集』の序文か。「金花堂」製の薄い青線の罫紙に版下としてそのまま使えるような整った字で書き付け、しかも石川雅望筆と思われる赤字の書体で添削した箇所が見られる。
コメント