去年五月三日之御状十一月十一日の貴書
何方ニ滞候事に哉所々の手を伝来候
様子ニ而同年十二月末ニ御両通の書
一統に相届申候而拝見弥御清栄之
御様子承奉欣悦候
一蜀山人之書一枚御贈被下不残忝
奉謝候且吉原十二時之文面白被存候
一御文章奉感読候少々?致書加へ
御返し申候
一御返書遅々ニ相成候訳も旧冬ゟ此春
掛け候而社中之ものゟ社家頭相手取申候
争論御座候而心配之上早春ゟ病気ニ而
枕ニ伏ながら用談ニ加り候様之事ニ而
其一条 官訴ニ相成同故并社家共
出府仕候而此頃少し落着旧冬?之
諸方の来状返事ニ取懸り候事ニ而如此
遅滞御免可被下候
一諸方文通之義京ニ而は恵比寿屋市右衛門
取次京ゟ東北ノ諸国ハ皆恵比寿屋へ出シ
申候京ゟ毎月廿日過ニ仕出シ下シ申候
右下しもの備前岡山西大寺丁かがと屋
伊右衛門と申もの取次申候四国分讃州ハ
岡山へ毎月三度之通船ニ而直ニかゝと屋へ
出し土佐ゟハ大坂え出し申候夫ゟ岡山
かゝと屋之
大坂新齋橋筋北久太郎町ノ北
河内屋儀助
此もの書林ニ而老拙著述板元之中????
中々御出しニ?て早速届キ申候貴家へ?
御返書出候品ハ其??ゟ御定メ可被仰聞候
京大坂にハ御得意も可有候
右之通御心得下被下候長言
松齋
三月廿八日
遠藤君
気づき
○恵比寿屋市右衛門 江戸後期の本屋、国学者。名を経正、範次、通称を万次郎、市右衛門といい、屋号は恵比寿屋、紙魚墨鐸舎などを号とした。恵比寿屋は寛政年間(1789-1801)から文久に至るまで千楯とその子、千屯によって営まれた書肆で、京都錦小路にあった。千楯は寛政九年(1797)から本居宣長に入門。文化十一年(1814)以降、鐸舎と号する講舎に盟友の藤井高尚らと共に、京都に宣長学の拠点を作り上げた。(コトバンク)
○松齋 藤井高尚の号(wiki)
コメント