書簡

六々園宛上毛野雅雄書簡

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-42-1

 ついてに(?)まうす此たひ我つらのわかしと?もかゝる
 哥すまひのまとゐくハたて侍るまゝとりあへす報条
 御らんせさせ奉るになむそのつらの君達へもそゝのかし
 給ひて御うたをしますめくませ給ハむことくれくれも
 ねきたいまつるになん穴かしこや

年の始の寿は千里もおなし春風
なからわきて玉をしかせ給へる御前ハと
おしはかり奉るになむなほ明くれ入たつ
君達の千歳をいはふほきこととも数々
きこしめし給ひけんといといとかしこく嬉しう
なむつきてハ草深き蓬の宿なから
鶯の初音待得しあしたのこゝちけに
すめば都とかの諺も思ひ出られて侍り
ことなきよしハ此一言にもおしはからせ給へ
なほつゝけまほしさハ野辺のわかくさ
しけかめれとまたきにさまでハいかにそやと
うくひすの?囀ハ春深くきこえさせ
奉るへくなむあなかしこや

むつきふつかの日     上毛野雅雄
六々園大人
御社友君達
    御許に(?)

語注

*上毛野雅雄 六帖園雅雄1794~1830 江戸時代後期の狂歌師。寛政6年生まれ。上野(群馬県)高崎の商人。五側の判者をつとめ高崎水魚連の中心人物として活躍した。文政13年8月13日死去。37歳。姓は大谷。通称は桐屋三右衛門。別号に桐雅雄、桜の壺。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus )石川雅望『雅言集覧』の本居大平序文は手鑑2-12-2雅望書簡によれば、当時春足宅で長期滞在していた雅雄が春足に勧め、春足が大平に取次ぎ成功したことがわかる。本ホームページ六々漫談「雅言集覧と春足」参照。

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