うれしくも思ひ給へらるゝかな
折からに霜結ふ草のいほを
とひくる人めもかこちてさうさうしきに
村雲の立へたゝれる和路へて
いその波うち聞えさせ給ふ御かへりこと
つはらに承り侍りぬまことや大人の
高き御名は世の人ののゝしり給ふに
聞侍りてしたはしくもなつかしうも
あハれさるへきついてもかなせうそこ
奉りてんと思ひ給へられなからわた
つみのそこのミるめも物むつかしと
たにおほし給ふらんと思ひたゆたひて
心くるしくも聞え奉らさりしに
ゆくりなく雅雄のぬしの驚かせ
給ひて大人の月なみのまうけ題を
しもおくり給ハりしかハかゝる折
こそありかたけれとうれしさに
心も乱れ侍りてすゝろなるよみ
歌ともにはかにものし侍りしことに
なんけふかゝる御まうけにハこま
つるきわれと思ハん人々の言葉の
?たちも後れしとよみ出給ふ
ことになんあめるそか中へ厚こえ
(以下略)
十一月廿日まり一日といふ日
胴胆太記
六々園大人
御もとへ
語注
*胴膽太記 どうぎもの ふとき1770~1854 江戸時代後期の狂歌師,医師。明和7年生まれ。紀伊和歌山藩田辺領主安藤家につかえる。天明調の狂歌にすぐれ東都五側の判者をつとめた。嘉永6年12月30日死去。84歳。姓は品川。名は惟名。別号に玄湖、泥田坊胆太記(デジタル版 日本人名大辞典+Plu)
気づき
○長帯のべんべんだらりと雅文体読みゐるうちに厭になりぬる 抜六
①(春足の)高名は世の人が「ののしる」(大騒ぎする、有名である、ときめく)ほどである。何とかして一度お便りを差し上げたかった、②雅雄(春足方に長逗留していた人)から(春足社中の)月次会の狂歌募集兼題が送られてきたのでよい機会と思い手紙を差し上げた。とある。
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