水無月のころさぬきの国なる
金比羅の宮に詣てかへる
さ阿波の国石井の里遠藤氏
六々園大人の許とふらひけるに
あるしまうけことにねもころ
にして折から暑さの比にし
あなれハしはらく杖をとゝめ秋風
立てんのちに旅のまうけせよ
かしといといとまめやかにの給ふ
ミこゝろさしのせちなるにほた
され侍りてミうちの労をも
かへりミすいたつらに過ぬ
このほとおよひをかゝむれハ
はやいつしかにミそかにも日数
のうつり行しまゝおとろきて
故なくかへらんとするに
余波のをしまれて
そり捨し坊主あたまもふりかへり
別にいたく引うしろ髪
春足うしの
ミやひなるふみ
書給ひしを
かつかつ
ミ侍りて
皇国ふミ
色染なして
阿波藍の
玉をならへし
言葉そ
これ
右 田鶴丸
語注
*田靏丸 岩田田鶴麿( ~天保6年) 狂歌師。名は霊寿。字は可蘭。三蔵楼田鶴丸又は橘庵と号し岩田次郎兵衛と称した。名古屋の人。家は染色を業としたが寛政の初から狂歌師を志し橘洲の社中に加はつて狂歌に精進した。文化年中江戸に赴き狂歌堂に逗留すること一年の後妻を携へて京により真葛原の西行庵の守僧となった。文政八年尾張熱田に帰り同八年再び江戸に行き奥州松島を遊覧した。時に年六十八。後天保三年又熱田に帰ったが天保六年四国遊歴の途次播州沖で颶風に遭い難舩して溺死した。時に天保六年十月六日。年七十七。狂歌江戸の花。狂歌五十鈴川。都曲七絃集。狂歌蘭亭帖などの著がある。(文政十三 文雅狂)(lapis.nihibun.ac.jp)
田靏丸 尾張酔竹川の巨頭として(橘屋と号するほどであった。)としてその名は狂歌界に名高い。『万代狂歌集』二十九首入集。(以下 粕谷宏紀著『石川雅望研究』P149に詳しく紹介されている。
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