錦絵六々漫談

市川團十郎 暫 五渡亭国貞画の錦絵、画賛七言絶句と狂歌

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-17-2

五渡亭 国貞画

  至清堂/捨魚
一声之暫
市川風
煎豆奏春
淑気通
名響四夷
八荒外
誉高桟敷
土間中

立かゝる
はるを
見かけて
しはらくと
ひとこゑ
かくる
庭の鶯
  宝市亭 外成

語注

*一声之暫 *しばらくとひとこゑ 歌舞伎十八番「暫」は主人公、鎌倉権五郎景政の「しばらく」の一声でクライマックスにさしかかる。
*八荒(「荒」は国の果ての意味)国の八方の遠い果て。国のすみずみ。天下。(旺古)
★(読み) 一声の暫 市川風/煎豆 春を奏で 淑気通ふ/名は響く 四夷 八荒の外/誉は高し 桟敷 土間の中

気づき

○「立かゝる」の方は庭の鶯を歌舞伎十八番「暫」の主人公・鎌倉権五郎影政に見立て、行く春に向かって「しばらく!」と声を掛けた。

対談

抜六 これはまた見事な市川團十郎の浮世絵ですな。

遠藤 歌舞伎に詳しくない私でも、すぐに歌舞伎役者だなってわかりますね。でも、どうして市川團十郎だってわかったんですか?

抜六 歌舞伎をかじったことがある方であれば、これは「暫(しばらく)」の鎌倉権五郎景政だとすぐにわかると思います。「暫」は市川家のお家芸十八演目を集めた「歌舞伎十八番」中の一番の人気演目です。

 「暫」を知らなくても、三つの升、三升(みます)の紋があることからも市川團十郎だとわかります。三升は市川家の家紋だからです。ちなみに、この浮世絵には五渡亭国貞画の下のところや歌舞伎役者の衣装に三升が描かれていますね。

遠藤 あぁ、この三つの四角が重なっているマークですか。なるほど、これがあるから市川團十郎だってわかるんですね。

抜六 この浮世絵を収集した春足さんが存命だった時代を考えると、おそらく七代目市川團十郎でしょうね。

遠藤 この浮世絵には七言絶句と狂歌も書かれていますが、どういう意味なんですか?

抜六 七言絶句から見ていきましょうか。

抜六 「一声之暫/市川風」は、一声の暫(しばらく)市川風(ふう)。これは最初に述べたように歌舞伎演目「暫」で、主人公の鎌倉権五郎景政が「しばーらーく、しばらく、しばらく、しばあらあ、くうー」と一声あげることで、舞台は最高潮にさしかかるんです。

遠藤 「暫」は演目の名前というだけではなく、台詞でもあるんですね。この「しばらく」という台詞は、「しばらく待ってくれ」みたいな意味合いですか?

抜六 そうです、「しばらく待たれよ」という感じですね。続いて、「煎豆奏春」は煎り豆のパチパチという音が春を告げ、「淑気通」は正月の淑気が通う。「名響四夷/八荒外」は名声が四方だけでなく八方の果てにまで響き渡る。

 「誉高桟敷/土間中」は「誉れは高し、桟敷・土間の中(うち)」で、土間というのは劇場の真ん中にある安い席のことです。

遠藤 要するに、鎌倉権五郎景政を演じる市川團十郎が爽快かつ素晴らしい役者であることを褒め称えているわけですね。

抜六 その通りです。

遠藤 次の狂歌はどういう内容なんですか?

抜六 立ちかかる春を見かけて「しばらく」と一声かくる庭の鶯(うぐいす)、と読みますが、まず最初の「立ちかかる」は「過ぎ去っていこうとする春」と「舞台で立ち上がろうとしている」を掛けている掛詞ですね。

 過ぎ去ろうとする春を呼び止めるように鳴いている庭の鶯と、歌舞伎の「暫」で鎌倉権五郎景政が一声上げる「しばーらーく」を重ね合わせているわけです。

遠藤 なるほど。となると、狂歌の方も「暫」を題材にとったものなんですね。

 この浮世絵は絵だけでも楽しめますが、文字の方も読めると味わい深くなりますね。教えていただいてありがとうございますー。

抜六 どういたしまして。

木村涼先生からのコメント

1、「暫」の主人名について
「暫」を演じているのは、七代目市川團十郎です。また、役名については、「鎌倉権五郎景政」としていますが、必ずしも「鎌倉権五郎景政」だということは断定できません。
もともと「暫」の初演は、元禄10年(1697)正月、中村座「参会名護屋」(さんかいなごや)において、初代團十郎が「暫」を勤めました。この時、初代が演じた主人公の名は、不破伴左衛門でした。
鎌倉権五郎という役名は、正徳4年(1714)の11月の中村座の顔見世の「万民大福帳」という芝居のなかで、「暫」を勤めた二代目團十郎が用いました。
江戸歌舞伎において、「暫」の上演は、毎年の顔見世(11月)興行でした。勿論、七代目團十郎の時も、「暫」は、顔見世に上演されました。しかし、七代目が勤めた「暫」の主人公の名は、渋谷金王丸、碓井荒太郎貞光、篠塚伊賀守、般若五郎等でした。
「暫」の主人公の名が、鎌倉権五郎景政に定まったのは、明治28年(1895)11月の顔見世において、五十八歳の九代目が、歌舞伎座で演じた最後の歌舞伎十八番の内「暫」からです。この時の演出が型として固定され、現在まで継承されています。

2、狂歌師、至清堂捨魚について
「至清堂捨魚」(しせいどうすてな)は、江戸下谷芋坂下で手跡指南を業とする。六樹園飯盛と親しく交際し、五側(ごがわ)の客員となる。「五側」とは、狂歌師六樹園飯盛率いる狂歌の一門のことです。

3、狂歌師、宝市亭升成について
「宝市亭升成」(ほうしていますなり)は、六樹園飯盛率いる「五側」に所属している狂歌師です。俗称は升屋多三郎であり、江戸日本橋四日市にて料理屋を営んでいました。
至清堂捨魚、宝市亭升成共に六樹園飯盛と親しい関係で、「五側」に所属しておりました。「五側」は、七代目市川團十郎を支援している贔屓連の一つでもあります。このような背景から、七代目團十郎が描かれた「暫」の錦絵に、至清堂捨魚、宝市亭升成は、漢文や狂歌を掲載し、七代目團十郎を支援していることを表明していると考えられます。
当主遠藤春足が、六樹園に師事していることもあり、春足は至清堂捨魚、宝市亭升成と交流を深めている可能性も十分に推測できます。したがって、七代目團十郎の「暫」の錦絵は、「五側」に所属し、かつ、春足と親しいと思われる至清堂捨魚、宝市亭升成等によって、春足宛てに贈られたものと考えられます。

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