摺りもの

秦鼎の「桶陜弔古碑」(桶狭間古碑)

以下の翻刻・訓読・現代語訳・コメントは徳田武氏のご教示による。

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-16-1
撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-16-1

登高原眇遠、慨嘆興廃于前跡。何國蔑有、余獨悲此桶峡云。記曰、永禄三年、駿侯
西征、五月十九日、陣桶峡山北。織田公以奇兵襲之。駿侯義元滅。夫駿強国也。方
其圖覇、相甲請以賦從、尾人亦往々送款。於是大挙入尾。攻鷲津・丸根、抜之曰、明
旦屠清州、而朝食。衆皆賀、置酒軍中。會黒雲起西北、風雨暴發、敵人鼓聲、亦從背
震。皆不意其猝至、中軍大亂、格闘死者、二千五百餘人。夫自足利氏失鹿、四海戰
場、周以侈亡、甲以暴滅。而未有若此一戰而趺者也。勝敗如化、誰知其極。但勝之
不可保、矧可驕哉。悲也夫。雖然、或聞軍敗、自先鋒還闘、與其卒二百人皆死、或守
孤城不走、請主尸而歸。若斯類者、累世所養、豈皆不忠烈哉。籍使後人有庸主之
材、外結強援、内用若士、師徒雖虧、駿遠之地尚全。猶足以向西報伐也。游蕩忘讐、
卒以播遷。悠々蒼天、此何人哉。今生平世、眇歎前跡、跡已歷二百五十年。時雖邈、
事猶昨、則後人吊之、亦猶今也。則是千萬世、亦何有極。請建碑以記之。銘曰、
  三軍覆 野茫々 孰有後 孰孤傷
  建片碑 酹古邱 来吊之 千萬秋
  亂之思治 已値今時
  治不忘亂 視舊跡碑
文化己巳夏五月 尾張 儒官 秦鼎撰 大阪 天満邸令 中西融書

訓読

(訓点は、原則として写真に見られる訓点に従う)

高原に登りて遠きを眇(み)、興廃を前跡に慨歎するは、何れの國にか有ること蔑(な)からん。余獨り此の桶峡を悲しむと云ふ。記に曰く、永禄三年、駿侯西征し、五月十九日、桶峡の山北に陣す。織田公 奇兵を以て之を襲ひ、駿侯義元滅びぬ。夫れ駿は強国なり。其の覇を圖るに方りて、相甲 賦を以て從はんと請ひ、尾人も亦た往々に款を送る。是に於いて大挙して尾に入り、鷲津・丸根を攻めて、之を抜く。曰く、明旦、清州を屠りて、朝食せんと。衆皆賀し、軍中に置酒す。會ま黒雲 西北に起り、風雨暴發し、敵人の鼓聲も、亦た背より震ふ。皆其の猝(には)かに至るを意はず、中軍大いに亂れ、格闘して死する者、二千五百餘人。夫れ足利氏の鹿を失ひしより、四海戰場となり、周は侈を以て亡び、甲は暴を以て滅びぬ。而れども未だ此の一戰して趺きしが若き者は有らず。勝敗は化の如し、誰か其の極を知らん。但し勝は之れ保(たの)むべからず、矧むや驕るべけんや。悲しい也夫(かな)。然りと雖も、或いは軍敗るると聞きて、先鋒より還り闘ふて、其の卒二百人と皆死し、或ひは孤城を守りて走らず、主の尸を請ふて歸りぬ。斯の類の若き者(は)、累世養ひし所、豈皆忠烈にあらずや。籍使(たとひ)後人 庸主の材有りて、外強援を結び、内 若(かくのごと)き士を用ひ、師徒虧けたりと雖も、駿遠の地尚ほ全し。猶ほ以て西に向かって報伐するに足れり。游蕩して讐を忘れ、卒に以て播遷せり。悠々たる蒼天、此れ何かなる人ぞや。今 平世に生まれ、前跡を眇歎すれば、跡已に二百五十年を歷たり。時は邈(はる)かなりと雖も、事は猶ほ昨のごときときは、則ち後人の之を吊ふも、亦た猶ほ今のごとくならん。則ち是れ千萬世も、亦た何ぞ極り有らん。請ふ碑を建てて以て之を記さん。銘に曰く、
  三軍覆(くつが)へりて 野茫々たり 孰(たれ)か後有る 孰か孤傷す
  片碑を建て 古邱に酹(らい)す 来りて之を吊へ 千萬秋
  亂の治を思ふは 已に今時に値(あ)ひぬ
  治の亂を忘れざるは 舊跡碑を視よ
文化己巳夏五月 尾張 儒官 秦鼎撰 大阪 天満邸令 中西融書

現代語訳

高原に登って遠い所を眺め、史跡に向かって興亡を慨歎する事は、どこの国に無い事だろうか、どこの国でもある事だ。だが、この桶峡間の史跡を悲しむ事は、私獨りだけの事のようだ。『信長公記』には言う、永禄三年(一五六〇)、駿河侯今川義元が西に進軍し、五月十九日、桶峡間の山北に陣を構えた。織田信長公は、奇兵を出して、これを襲い、駿河侯義元は滅んだ。そもそも、駿河は強国であり、其の覇を圖るに方りて、相模も甲州も税を出してまでして從おうと請い、尾州の人も亦た往々に金銭を送る。そこで駿河軍は、大挙して尾州に入り、鷲津・丸根を攻めて、之を取り除こうとする。侯は言う、「明朝は、清州を屠ってから、朝食にしよう」と。衆は皆、慶賀し、軍中に酒を用意する。たまたま黒雲が西北に起り、風雨が俄かに起り、敵軍の鼓音も、亦た背後から震い起こる。今川軍は皆、織田軍が俄かに至ろうとは思わず、中軍は大いに乱れ、格闘して死んだ者が、二千五百人余りにもなった。そもそも足利氏が覇権を失ってからは、国内が戰場となり、周防の大内氏は奢侈によって亡び(天文二十年、一五五一頃)、甲州の武田氏は一族の不和によって滅びた(天正十年、一五八二)。けれども、このように一戰だけで滅亡した者は、いまだ無い。勝敗とは変化するもののようだ。誰がその極まり止まる所を知れようや。ただ、勝利とは頼れるものではない。況や驕るべきものではない。悲しい事だ。とは言うものの、或いは軍が敗れたと聞いて、先鋒から戻って闘って、その兵卒二百人とともに皆死に、或いは孤城を守って逃走せず、主人の屍を請うて歸った者もいる。こうした類いの若き士は、累代今川家が養成した者であって、どうして皆忠烈な者ではないと言えようや。たとい後人に義元のような凡庸な主人が出て、外には強い援軍と結び、内にはこのような忠義の士を用いて、軍と部下とに欠落が生じたとしても、駿河・遠江の地は尚おも全うされている。しかも猶お、これに拠って西に向かって報伐することができた程である。後継の氏真は、游蕩して復讐する事をも忘れ、終に他の土地に移る(永禄十二年、一五六九年、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、妻の早川殿の実家北条家に身を寄せる)。永遠広大なる蒼天の下で、人とは何と果敢ないものか。今 私は、平和な時代に生まれ、遺跡を詠歎して眺めれば、その史跡は既に二百五十年を歷ている。時は遥か以前であるとはいうものの、事はまるで昨日のようであるから、とすれば、後人がこれを吊う場合でも、やはり猶お現在のような状態であろう。とすれば、千万世を経ても、亦たどうして極りが有ろうか。碑を建てて、そうしてこの事を記すのを願うものである。銘に曰く、
  全軍が敗れた後に 野は茫々と広がる。 誰が後に続くのか。 誰が独り傷むのか。
  一片の碑を建て、 古くからの邱に酒を注ぐ。 人々よ、来りて之を吊え、 千万年も。
  乱に在って治を思う例には、 既に今時でも遇った。
  治に在って乱を忘れない例は、 舊跡碑に視よ。
文化己巳(六年、一八〇九)夏五月 尾張 儒官 秦鼎撰 大阪 天満邸令 中西融書

コメント

訳文の内には、「軍が敗れたと聞いて、先鋒から戻って闘って、その兵卒二百人とともに皆死に、或いは孤城を守って逃走せず、主人の屍を請うて歸った者もいる。こうした類いの若き士は、累代今川家が養成した者であって、どうして皆忠烈な者ではないと言えようや」という一節があるが、それは、太田牛一著『信長公記』首巻の、
  山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御目を懸
  けられ候。討死にの由承り候て、馬を乗帰し討死。寔に命は義に
  依りて軽しと云ふ事、此の節なり。
  二俣の城主松井五八郎、松井一門・一党弐百人枕を並べて討死
  なり。爰にて歴々其数討死候なり。
という記載を踏まえたものと言って良い。この部分は、義元の部下にも忠烈な者があった事を言うものだが、そこで、愛知県図書館の「貴重和本デジタルライブラリー」の『桶陝弔古碑』の解説(ウイキペディア)解説では、
桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明(とよあけ)市にある国指定史跡)に現存する碑の内のひとつ『桶陝弔古碑』の碑文(表面)及び碑陰記(裏面)の写し。文化丙子(文化十三年一八一六)に、仙田善という当時十歳の子供が碑文を書き写したと奥書に記されている。実際の石碑にはない返り点や送り仮名が付されている。 『桶陝弔古碑』碑文の作成年は桶狭間の戦いから約二百五十年後の文化己巳(文化六年、一八〇九)。撰は尾張の儒学者秦鼎(宝暦十一年、一七六一年)~天保二年、一八三一)による。 石碑は、津島神社神主の氷室豊長(天明四年、一七八四~文久三年、一八六三)が建立し、石碑の背面に『碑陰記』を寄せている。氷室豊長は、桶狭間の戦いで討ち死にした今川家家臣遠江二俣城主 松井宗信の子孫。そのため、碑文、碑陰記ともに、今川方を含む戦死者を悼む内容となっている。
と、今川方の戦死者を悼む内容と、言うのであろう。但し、秦鼎は、そればかりではなく、勝敗は相対的に変化するものであつて、頼りにならないし、治に在っても乱の可能性を忘れてはならない事をも述べている。銘をも参照すれば、むしろ、そちらの方が主要発言であるとさえ見える事をも忘れてはならないのである。
また、同図書館には、当館所蔵の『桶狭間合戦古跡絵葉書(全12枚)』(発行所、発行年不明)に、桶陝弔古碑及び弔古碑陰之銘を撮影したものが含まれている。 愛知県図書館 絵はがきコレクション
『豊明市史 資料編2』(豊明市役所,1975) 資料ID:1101474669
『豊明市史 資料編補2』(豊明市,2002) 資料ID:1108169000(石碑表面写真(p134)及び翻刻(p168)あり。未見)
と、絵葉書と翻刻掲載資料とが備わる、と言うが、それに訓読や現代語訳が存在するのかは不明であり、筆者がここに訓読と現代語訳を掲げるのにも秦鼎と『桶陝弔古碑』の顕彰として意義が無いことはあるまい。

語注

*秦 鼎(はた かなえ、1761年(宝暦11年)~ 1831年(天保2年))は、江戸時代の漢学者。字は士鉉。通称、嘉奈衞。滄浪、小翁、夢仙と号した。父は刈谷藩の儒者の秦峨眉。
美濃の人。父に従い家学を承け、さらに細井平洲に学ぶ。尾張藩の藩校明倫堂の教授として活躍した。校勘に優れ、『春秋左氏伝校本』『国語定本』『世説箋本』などが、世に行われている。また、詩文を善し、能筆の誉れも高かった。しかし、その博識と驕慢は、毀誉褒貶を招き、やがて失脚した。天保2(1831)、71歳で死去した。

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