対談
家業について
遠藤 今回の吾嬬日記を読んで、春足が度々江戸へ行っていたこと、そしてその理由がわかりました。
抜六 最初の方に書いていましたね。「そもそもおのれが家ハとしごろ染草を東の国々にうることを家のなりとすなれハ三とせ四とせかほとにはかならずかうミづからものすることになんありける」、つまり「我が家は染め草、すなわち藍を関東に売り広めることを家業にしている。なので、三・四年に一度は必ず自分自身が江戸に行く必要があった」ということですね。
遠藤 日記の最後に「かくて七の鼓鳴ころ八丁堀なるおのれがかまへおきたる家にハつきぬ」とあるので、江戸は八丁堀に住居兼お店を構えていたんですね。
抜六 春足さんの江戸のお店は、本八丁堀三丁目にあったようです。これは春足さんが残していた「文化元年子年四月 藍玉屋名前帳」という資料から確かめられます。
遠藤 でも、三・四年に一度様子を見に行くだけってことは、いつもは誰かがお店をやりくりしてくれていたってことですよね。
抜六 普段の経営は番頭の吉右衛門さんという方に任せていたようですね。春足さんの書いた『春屋随筆』という本にそのことが記載されています。
遠藤 なるほど。でも、春足にとってはラッキーだったでしょうね。狂歌のお師匠である六樹園さんをはじめ、多くの文化人は江戸住まいだったでしょうから、直接話ができるまたとないチャンスだっただろうなと思います。
抜六 まさにその通りでしょうね。当時は、まだまだ庶民が自由に移動するのは制限されていた時代なので、江戸のお店の様子を見に行くという大義名分があったことは、とてもラッキーなことだったと思います。
行程について
遠藤 しかし、いまは飛行機を使えば徳島から東京まで1時間ちょっとで行くことができますが、当時は歩いていくしかないんですもんね。春足も合計16日もかかっているわけで、そうそう気軽に行けるものではないですね。
抜六 当時、すでに街道は整備されていましたが、やはり物騒なところもあったでしょうからね。山道なんかはやっぱり足早に抜けていったんじゃないでしょうか。
遠藤 そういえば、抜六先生は東海道を実際に歩いたことがあるんですよね。
抜六 そうなんですよ。昔の人がどういう道を通ったか、何日も歩き続けるとはどういうことなのかを体験したくて、京都三条大橋から四日市までは二回、四日市から東京の日本橋までは一回歩いたことがあります。
遠藤 実際に歩いた経験があれば、この吾嬬日記に記された春足の足跡も追いかけやすかったんじゃないですか?
抜六 この日記を解読しながら、私もこの道を歩いたなぁと感慨深くなったりしましたね。ただ、実はいまの東海道1と春足さんの時代の東海道はルートが違っているところもあるんですよ。たとえば、滋賀の草津から愛知の宮までの行程がいまの東海道とは大きく異なっています。
いまの東海道は草津から彦根、関ヶ原、岐阜、名古屋というルートを通りますが、実はこのルート、草津から岐阜までは中山道なんです。むかしの東海道は草津で南に分岐し、春足さんが歩いた通り、土山、鈴鹿峠、関、亀山、四日市というルートを通り、桑名からは有名な海上七里(約二十八キロ)を船で渡って、熱田神宮に近い宮に上陸するんです。
遠藤 へぇ、ということはむかしの東海道は名古屋を通らなかったんですね。
抜六 あと、春足さんの足跡を追いかけるという意味で、個人的に春足さんの記述に大いに共感したところがあります。春足さんは3月29日、静岡県にある薩埵山を越えたところで富士山を見て、大いに感動したことを記していましたが、ここは私も東海道歩きの中で最も感動した眺めです。この吾嬬日記は文政七年(1824年)のことですが、いまからちょうど200年前ですよね。時代は変われど、富士山の素晴らしい眺めは変わらないんだなと、解読しながら感慨深くなりました。
廿九日朝薩埵山こゆ不尽の眺望ハいづくハあれどこの/所なんことにすぐれたりとて代々の絵師たちもむねとこゝ/のさまを写すことにハすめるげに山もとまでも波たちくる入/海のうへにたゝ白き扇などかけたらんやうに見えたるさまもろこし/ハさらなりもろもろのにしのはての国々にもまたたぐひあるべうも/おほえす
- ここで言う「いまの東海道」は東海道本線・新幹線の通っているところを指しています。国道一号線は「むかしの東海道」を通っていますが、一般的にいま東海道といえば東海道本線・新幹線のルートを思い浮かべる方が多いと思うので、このように表記しています。 ↩︎
文章の特徴について
遠藤 私も吾嬬日記を読んで、実際に東海道を歩いてみようかなって思いました。いつか実行したいですね。
ところで、この日記を読んでいて地名が出てくるところは比較的わかりやすかったのですが、なんとなく古典が引用されているのかな?ってところは、私自身に古典の素養がないのでよくわからなかったですね…。
抜六 はい、その通りで、吾嬬日記にはたくさんの古典が引用されています。例えば、3月22日には古事記、24日には伊勢物語・光行の日記、26日には三代実録・十六夜日記・能の熊野、27日には太平記・土佐日記・万葉集、29日にも土佐日記・万葉集、4月1日は西行、といった調子ですね。これ以外にも歴史上の故事なども引用していますね。
遠藤 極端なことを言えば、引用の谷間に自分の文章があるって感じですよね。
抜六 私が高校生の頃、古典の先生の書く文体がこういう調子でした。文学や歴史への造詣が深すぎてつい思い出してしまうんでしょうね。実はこういう文体が日本の旅日記の一つの特徴でもあるんです。
遠藤 そういえば、松尾芭蕉の「奥の細道」なんかも歌枕を訪ねて歩いた旅だって聞いたことがあります。春足も江戸に向かう途中、古典や故事を思い出しながら歩いていたのかもしれないですね。
抜六 そういう観点で言えば、私が惜しいなと思ったのは春足さんが伊勢物語に出てくる八つ橋に寄らずに行ってしまったことです。八つ橋は池鯉鮒の松並木から往復三キロくらいしか離れていないんです。春足さんは気に掛けながら籠に乗っていたら、いつの間にか通り過ぎたと書いてあります。
遠藤 まあ、自分の足で歩いていないときであれば仕方ないですね(笑)
そこそこ贅沢な旅行
遠藤 そういえば、春足は鈴鹿峠や箱根を籠で越えていますよね。それに従者も一人連れていっています。庶民としてはそこそこ贅沢な旅行だったのではないでしょうか?
抜六 はい、その通りですね。箱根越えのところでは「かゝるけハしき山路をも夢ながら人にかゝれつゝはやくもたう/げにいたるげにあしなうしてゆくとかいへる銭/の神のみとくぞたぐひもなくたふとくハおぼ/えし」と書いてあります。「足」もなくて眠りながら峠を越えることが出来たのは「お銭」のお陰だというわけです。
遠藤 あっ、そういう意味だったんですか。なかなかシャレが効いていますね。
抜六 とにかく、この旅日記は阿波の人が書いた物としては非常に貴重な作品だと思います。もし私が未だに高校の現場に居たら、教材として取り上げたかもしれません。
遠藤 こういうところから生徒が古典に親しんでいくパターンもありそうですよね。いずれにせよ長い文章の解読・解説ありがとうございました。
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