後注
○大江広海(おおえ-ひろみ)1769~1834 江戸時代後期の国学者。明和6年生まれ。江戸で村田春海の門にまなび,京都でおしえた。天保(てんぽう)5年6月23日死去。66歳。越後(えちご)(新潟県)出身。字(あざな)は景迹。通称は復蔵,靱負。号は檉園,健斎。(weblio)
○尾崎雅嘉 宝暦5(1755)~文政10.10.3(1827.11.21)江戸中・後期の国学者。字有魚。通称春蔵(俊蔵)。号は蘿月,博古知今堂,華陽。大坂の人。父は医師であったというが伝未詳。雅嘉は奥田元継に儒学を学び,21歳の安永4(1775)年に刊行された『浪華郷友録』には儒家として登載。ただし儒者としての活動はこのころまでで,和歌国学をもって次第に名を現すに至る。『千首部類』や『増補和歌明題部類』のような和歌の部類から入り,やがて古今和歌集の俗語訳『古今和歌集鄙言』へと進み,この系列の仕事が没後刊行されて大いに行われた『百人一首一夕話』(1833)に結実することになる。雅嘉の本領は,和歌や古典の解釈に沈潜するよりも文献資料を収集し編集する方に最もよく発揮された。和書の書誌解題として質量ともに江戸時代を代表する『群書一覧』は圧倒的な評価を受け,版を重ねたし,『続異称日本伝』や『事物博採』は,写本のまま伝わるが,規模の大きさと資料の博捜とで,雅嘉一代の著述と称するに足る。和歌にも優れていたといわれるが作品は少ない。上方の文人との交遊は繁く,木村蒹葭堂や香川景樹一門との関係は注目される。文献学者として雑学に終始した点は惜しまれるが,後世に裨益する所大である。<参考文献>管宗次「尾崎雅嘉年譜」(『青山語文』12号),同『群書一覧研究』(久保田啓一) 出典 朝日日本歴史人物事典
○斎瓮 (イワイベ)神に供えるための忌み清めた容器(コトバンク)
行程
(地名は記述通り)
三月十六日 徳島出発 撫養(桶屋泊)
三月十七日 いつもは大阪まで海路を行くが今回は雨が多かったので陸路を行くことになり淡路島経由となる。 撫養→鳴門海峡→吹浦→塩屋浦(いせや泊)
三月十八日 塩屋から船。いつもは須磨を経由するが、この日は風がよかったので直接大坂をめざす。夕方安治川に到着。(大坂堀江・いづみ屋泊)
三月十九日 小浜に尾崎翁(尾崎雅嘉)を訪問。夕方四つ橋から船にて淀川を上る。
三月二十日 朝、伏水(伏見)着。大仏屋で朝食。(京都は経由せず)大津を目指す。石場からやばせまで船。上陸後、鏡山→相阪山(逢坂山)→石部(扇屋泊)
三月二十一日 石部→鈴鹿山(竹輿)→関(隺屋泊)
三月二十二日 関→亀山→庄野→能煩野→石薬師→杖衝阪→桑名(京屋泊)
三月二十三日 桑名(これより海上七里は船)夕方宮着(紀伊国屋泊)。田隺丸と会う。
三月二十四日 宮→鳴海→有松→桶狭間→池鯉鮒(八橋は寄らず)→矢作→岡崎→藤河→赤 阪(烟草屋泊)
三月二十五日 赤阪(この日、従者が頭痛のため進むことが出来ず、やむなく吉田止まり(橘屋泊)
三月二十六日 吉田→白須賀→橋本→新居→(これより船、海上一里)舞阪→浜松(鍋屋泊)
三月二十七日 浜松→天竜川→見附→袋井→掛川→日坂→佐夜の中山→菊川→金谷→大井川→島田(松屋泊)
三月二十八日 島田→宇津山→阿部川→狐崎→清見が関→興津(大国屋泊)
三月二十九日 薩埵峠→西倉沢→由井→蒲原→ふじ川(船)→沼津(元問屋に泊まる予定だったがどこかの殿様の貸し切りだったので宿場はずれの名も無い宿に泊まる。)
三月三十日 沼津→三島これより箱根越える(竹輿)→箱根→波多(湯元か?)→小田原(小清水泊)
四月一日 小田原→大磯→鴫立庵→戸塚(中村屋泊)
四月二日 戸塚→川崎→玉川・六郷川→大森→品川→江戸・八丁堀
以上十六日 途中大坂で尾崎翁訪問、宮で田鶴丸と会う、赤阪にて従者が病気になり吉田で休憩等暇取ったがほぼ標準の日程で江戸到着。
気づき
①阿波から江戸へ行くコースについて 大坂までは通常は船便にて直接大坂へ行くのだがこの時期は雨が多かったので淡路経由のコースをとった。
②淡路コースを取った場合、通常は塩屋からは須磨を経由するが、この日は天気(風)が良かったので直接大坂(安治川)へ向かった。
③大坂の小浜で尾崎(雅嘉)宅を訪問した。尾崎翁は春足さんを手厚くもてなし、最近完成したという「続異称日本伝三百十二巻」を見せてくれた。これには圧倒された。
④四つ橋から船に乗り伏見へ、伏見からは(京都には寄らず山科を経由して)相阪山(逢坂山)に向かった。石場からやばせまでは船。
⑤桑名から宮までは海上七里の船旅。宮で三蔵楼田鶴丸をたづねる。田鶴丸は先年春足さんの所で長期間滞在しており(田鶴丸の書簡あり)、気安い間柄。翌日見送っているからこの日は同じ宿に泊まったかも知れない。名古屋へも誘われたが先を急いでいたので行かなかった。(尋ねたかった人物を列挙)
⑥池鯉鮒で八橋(伊勢物語最大の山場)へ行きたかったがコースから外れるので(往復三kmくらい)行かなかった。(これは惜しい!)
⑦赤阪あたりで「ずさ」(従者)が頭痛に苦しむので道ははかどらず。次の日吉田で一日休憩。(このあたり春足さんの従者を気遣う心が読み取れて面白い)
⑧薩埵峠で見たこともない富士山の絶景に感動。長歌を詠んでいる。(この場所は今も東海道一の絶景スポットであるが山の上にあるのでほとんどの人が知らない。)
⑨総じて文章は伝統的旅日記の形をとっており優雅。旅は贅沢である。(文学的・歴史的場所には関心を持つが、世俗的な事柄にはほとんど関心がない。)
⑩春足さんの家業は「染草を東の国々に売ること」で三、四年に一度は江戸へ出向いていた。
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