六々漫談刊本・自筆稿本等

『吾嬬日記』と題する遠藤春足旅日記(序文・大江広海、石川雅望)

【3/25-3/27】吉田~浜松~島田

ハ竹輿にゆられたるけにやあらんへどつきなどしてくるし
かればいまハとて吉田の橘屋といふにやどりぬ時ハまだ
うまのかいふくほどなべしさてくすしをよびて
湯のませはらとりのほうししてかいなでさせなど
するに申ばかりよりやうやうこゝろさはやぎぬとてもの
くひなどしけるうれしさ何にかハたとへんされば此よろこび
にとていさゝか酒ものさせけるにはやくも遊びだつことのゝ
きて三絃ミツノヲの琴かいひきつゝ声をかしううたひたるさま
などけしうハあらずはやうよのわらハ謡に吉田女郎衆ハ
かうたへるもげにとぞおぼえたる

   旅路にもにほへる花はあるものを
    草のまくらとなになげきけむ
○廿六日ねやのうちのひとりごとに
   しらさりき草のまくらにかくはかり
    にほへる花のかをしめんとハ
房をいづとて
   けさはまた雨そふるなるめつらしく
    露おかさりしくさのまくらに
けふハていけよくずさもつねのやうになりぬといへばはやく
より出たつを女はとのかたまでおくり出つゝとくかへりの

ぼり給へまちて侍らんなどいへるしりめもにくからず
   こよひまた夢にや見えんかハ竹の
    ひとよのふしのかりのまくらも
白須賀より竹輿にのる此スクにハはやう夏目ノ瓶麿といふ
人ありこは故本居大人のをしへ子にして古学にふかくこゝ
ろいれつゝ類語とか類纂とかいへる書著さんとてとし
ごろいそしミものせられたるををとどしばかりにやあり
けむ京にものしてつひにかしこにてなくなりにたり
ときゝけるぞいともいともあたらしき
   東路にありつる人をおもひきや

    にしにむかひてなげくべしとハ
かくて一里ばかりゆきて橋もとゝいふところありこれいに
しへの駅宿ウマツギにてかの浜名の橋本なりとかむかし右大将
頼朝卿此駅にやどらせ給ひてかずかずのあそびどもの
まゐりたるにものかづけ給ひたること東鑑に見えたり
此浜名の橋つくれたるよしハ三代実録に見えたれど
いつこのころよりかかうハたえたりけんしらずかし
   こゝろにハかけてぞしのぶいにしへの
    浜名の橋ハ名のミなれども
新居よりふねにのる此わたり一里あなれど風よければ

にや烟草二つぎ三つぎばかりくゆらすほどに舞阪に
つきぬこゝよりまた雨ふり出ぬれば雨衣につゝまれつゝ
ゆきてからうじて浜松の鍋屋といふにやどる万葉集
に引馬野ににほふハギ原とよミたるハすなハち此ところ
なることは十六夜日記いざよひにきにこよひ引馬野(*)の宿といふ所に
とどまる此所の大かたの名ハ浜松とそいひしとある
にてしれたり
○廿七日雨やむけふハ大井河わたらんとてまだくらきよ
りおき出つゝゆきて日のさしいづるほどに天龍河わたる
此河の東のきしを池田の里といふこれもむかしの駅宿に

て其ころハあそびなどもあまたありしとぞかの宗盛の
大臣のめで給ひたる湯谷ユヤの侍従(*)といへるも則このすくの
長が娘にて今も行奥寺とかいへるに其塚などもあり
とぞそのかみ平家のときめきけるころかの大臣の
花の宴になれしあづまの花や散らんとながめてふ
るさとにしもかへりたるこゝろふかさたれかハめでおもハ
ざらむ
   をしみしもなれしも散てちるらむと
    よミしこと葉の花ぞのこれる
見附袋井掛川などいへるすくをすぎて日阪にいたれば


*引馬野 引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(万 巻一ー57)
*湯谷の侍従 熊野 池田の遊女。

屋ごとに蕨もちひをものしてめせめせといふこゑいと
かしがまし
   たがた?(め?)に蕨もちひをうるならん
    いひにうゑにし人もなき世に
かの清原のおもとのさのミきゝけんとやいはれ給ふらんと
おもふぞいとをかしきとかゝれたるコトマゝの社(*)も此わたりにやと
   大井川わたりやすくといのらむや
    おもへることのまゝの神垣
佐夜の中山をのぼりゆくに無間山観音寺へゆく道と
ゑりたる石たちたり此寺にハ無間の鐘とかいへるありてたれに

まれこれをつきたらんものハ風のふきつくるやうにとくつき
てこがね白かねこゝろのまにまにみちくるなれど死してのゝ
ちハ無間地獄とかいへるにおつとてかゝる名ハおほせたる
よしはやくよりいひつたへたれど例のあとなしことなるべし
またこゝに夜啼石といふありいかなる時にかなきたり
けんしらず
   とこしへにかハることなき玉かしハ
    何をうしとて夜なきすならん
やゝくだりて里にいづれバ土橋わたせる河ありこれなん
菊河なりといふかの西岸に宿して命をうしなふと


*言の任の屋代 掛川市八坂 事任(ことのまま)八幡宮あり。

かゝれし承久のむかし(*)同し流れに身をやしつめんとよま
れたる元弘のいにしへかれといひこれといひあはれいはんかたなし
   ふりし世のこときく河のながれにハ
    袖をぬらさぬ人しもぞなき
ほどなく金谷にいづこれより島田へは一里ありて大井
河かハらいとひろしおもひ出る都のことは大井河(*)と阿仏尼君
のよミ給へるもおもひ出られつさてけふハきのふのなごりにて
ただうちくもりてのミなんありけるを申ばかりにやあらん
いさゝか晴ける雲間にはじめて不尽の峯いと白うあら
ハれ出たるハかのから猫のつなにひきあけられたるみすのひまよ

りゆくりなういとらうたげなるうちぎ姿の見えそめ
たりけんこゝちせられてうれしきことかぎりなしさるをずさ
のをのこハ猶不尽てふことをもえしらであれハなにぞと道
行人にとひなどしけるもげにい(こ?)とわりなりはじめてう
ちみたらんに是山なるべしとハいかでかおもふべきされば
其こゝろを長歌にものしつ
   難波津を手習ふころゆ不尽の山絵がくをミれバ
   不尽といふことをししりて山の名ハとハでぞあり
   しかくのミいちしるき山かくの名高き山を其山のあ
   りといふなるうちよする駿河の国にはろはろにきつゝ


*昔南陽県菊水/汲下流而延齢/今東海道菊河/宿西岸而失命 中納言宗行  古もかかるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん 日野俊基(太平記)
*おもひ出る都のことはおほゐ川いく瀬の石も数えおよばじ(十六夜日記)

   し見れハ其山ハあやしきかも麓より雲たちのほり
   しか山のありともしれずしか峯の高きも見ねハい
   づくにか山ハあるらむいづくにか峰ハあなると久堅の
   雲ゐをのミいたづらに仰ぎしをれば級戸倍シナトヘの風ふ
   きたちておもほえずはるゝ雲間に筑紫綿つミ
   たる如く真白なるものぞ見えけるこれハしもあや
   しきものと里人にことゝひきけばこれぞかの不尽とし
   いへるかくのミいちじるき山かくのミ名高き峯をま
   さめにハ見れどえしらで里人にことゝひきけること
   のあやしさ

     反歌
   写し絵を見れバまつしる不尽の山を
    まさめに見つゝとふかあやしさ
大井河にいたれハむくつけき男のあかはだかなるがきて
かこにのせつゝわたる水ハしりにつくばかりなるが流れのはやき
ことただ射る箭などのやうにてめくるめき身もわなゝかれ
きも魂もうするこゝちす
 かくばかりあらき早瀬を日のほどに
    いくたひわたりゆくそかち人
大井河ことなくわたりて嶋田の松屋にとどまるほどなう

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