六々漫談刊本・自筆稿本等

『吾嬬日記』と題する遠藤春足旅日記(序文・大江広海、石川雅望)

【3/20-3/25】大津・石場~鈴鹿山~関~桑名~宮~赤阪~吉田

石場といふ所より又ふねにのりてやはせのかたへものす
湖水ミツウミのけしきいはんかたなし絵にかきおとりすとハかう
やうのところをこそ
   かきかそふやつのけしきのあるうみを
    みるめなしとはいかでいひけむ
ほとなうやばせにつきけれハ舟より出てゆくに鏡山
いとちかくて見ゆ
   たちよりて見てハゆかしなかゝミやま
    ひくろむ(*)たひのかけもはつかし
石部の扇屋といふにやとる

○廿一日あけぐれのほとよりおき出てゆくに土山のあたりより
雨の降出けるハげに童謡ワラハウタのことばにたがはずとて笑ひぬ
鈴鹿山竹輿にのりてこゆ此山にはむかし鬼すミて人を
なやましけるを阪上ノ田村麿ほろぼし給へるよしふるく
よりハいひつたへて則此わたりに田村明神の御社などもあなれ
ど例のみだりごとなるべし田村麿の事ハ続日本紀にしる
されけれどさることハ見えず
   そらことゝおもふものから鈴鹿山
    ふりにしことはなほしのはれぬ
やゝゆきて筆捨山といふありむかし狩野某とかいへる絵師


*ひくろむ ひくろみ 日に焼けること(旺古)

此山のさまを写さんとしけれどえ写しえで筆を捨たり
しよりこの名おひたりと里人のいへるハまことにや
あらんしらす
   絵師すらもうつしわひぬときく山の
    すかたをいかてことにいつへき
申ばかりにやあらん関といふウマヤにいたれハいと若き女の
ことさらにつくろひたるが家々より出きていざやどりとらせ
給へ家のうちもひろらかにさふらふたゝミよるのものも
きよらにさふらふなどいへバまたかたへなるゆふけの御膳オモノ
にもよきものまうけおきてさふらふ御風呂の湯もとく

わかしてさふらふなといひつゝ旅衣の袖つよくとりてはな
たず西に東にひこづらひゆくをゆかじとすまふほどに旅
衣の袖をほとほときゝるべうおぼえければ
   やれぬともたれつゝりせんさのミには
    たもとなひきそやとのさふるこ(*)
からふしてのがれゆきて隺屋といふにやとりぬ
○廿二日てけよく例のまゝに出たつこゝより伊勢の大宮のかたへ
わかれゆく道ありて鳥居たてりはるかにふしをがミて
   天照須日の大神に恭出マヰデ
    みちとしきけば尊くおもほゆ


*さふるこ うかれ女 遊女(旺古)

亀山庄野をすぎて日本武尊の御陵ミサゝキあり古事記に能
煩野とあるぞ北此にハありける
   倭武ヤマトタケ神の尊のかしこくも
    神さりましゝのらそ此のら
石薬師ハすくの名におひていみしき石の薬師佛たゝ
せ給へりされどから佛の形などゑりたるハ例の後の法師
どもがしわざにてはやう上つ世にハ石のミありしなるべし
万葉集に五十師原イシノハラとよミたるも即此所にて石のはらなるべし
と鈴屋ノ翁ハいはれきこゝを過ゆくほどに杖衝阪といふあり
日本武尊の東よりかへらせ給へる時御足をなやませ給ひ

て佩せ給へる御剱をとりて御杖につかせ給へるところなりと
かげにさる事ハ古事記にもいちじろくしるされにたり
かくてとみ田といふにいたれバ家ごとに蛤をやきてうりつゝ
旅人をよふ声いとらうがハし(*)桑名の京屋にやどる
○廿三日桑名より船にのる此わたり七里ありといふ乗人十人
ばかりなる中にくすしだつ人ひとりありてゑかきたる
扇をもちたりやがてこひとりて見れば此ころの上手にすめ
る豊彦の筆して松の下に庵ありて月出たるところを
かきたりいとおもしろくおぼえけるまゝ其こゝろをよめる
   かつかくれかつあらハれてすむ月も


*らうがはし 騒がしい 騒々しい(デジタル大辞泉)

    影さたまらぬ松のしたいほ
とかくするほとに申ばかりに宮のすくにつきけれバ紀
の国屋といふにやどる三蔵楼田隺丸此わたりにすミけるよし
きゝければその家のあり所ハいづこぞとやどのをのこにとふに今
のほと隣人のがりきてはべりよびてまヰらせんとて出
ゆきけるがほどもなうともなひてくこの法師ハこぞの夏
阿波国におのれがもとにとひきてひさしうとどまりをり
などしてになうしたしうせる人なればただふるさと人にあひ
たらんやうにいとうれしうて何くれとものがたりすこたびハ
いかで名古屋にもものし給へなどねんころにいひけれと江戸

のかたにとくとおもふことのありてえものせず此名古屋
の里には名たゝる人々いとおほくておのれがつねにゆか
しう思ひわたるハ鈴木ノ朗。市岡ノ猛彦。あざれ哥好める人にハ
龍屋ノ弘器。双蝶園中雄からざえなれど秦ノ鼎はたゆかし
   見るはかりちかゝるものを旅衣
    たちもよらすてすくるくるしさ
○廿四日つとめておき出けるに田隺丸もいとはやくより起て
このすくのはてまでおくりくさてわかるとて
   家を出てまだほしあへぬ袖のうへに
    さらにおきそふわかれぢのつゆ

鳴海有松などいふところをすぎて桶狭にいたる此所ハむ
かし今河義元織田信長の君と戦ひてつひにうたれにたる
わたりなりとかさハいくそばく人の命をかうしなひけんと
そぞろさむきこゝちのせられて
   かつおそれかつかなしみぬふむつちも
    たかいにしへの屍なるやと
其人々の塚などもあるよし里人のいへば
   うつ人もうたるゝ人もおなし苔の
    したにそくつる名のミとゝめて
池鯉鮒より竹輿にのる在中将のはるばるきぬるとよませ給

ひたる八橋のあとハいづくにあるにかとこしかたをのこに
とへばこれより八丁ばかり北のかたに無量寺といへるあり
これぞかの八橋のあとにて侍るといふまうでまほしうおほえ
けれどとかくいふほどに輿かきてすぎぬるぞせんかたなき
箭矧の橋のもとにてひるげくふとて
   やすらひてゆけやたひ人梓弓
    箭矧の橋ハ長くこそあれ
此橋の長く大きなること外にハまたたぐひあらじ
とかげにあゆミこうじたるあしにハ馬なきまで
にそおほえたる

   かくはかり長き旅路にまたひとの
    なかしとわふる橋のありけり
是より岡崎藤河をすぎて赤阪にいたり烟草屋とか
いふにやどる此すくにハむかしよりくぐつだつもの(*)いとおほかりし
にやにやこゝにありける女ゆゑに大江定基(*)が家を出けるも
あハれなりと光行の日記にもしるされたり今もさる女ども
のおほくありてとりどりにうちさうぞきつゝ国ぶりにやあら
んうちゆがミたる声うちあげつゝにしにひがしに行かふ
さまうらいたきこゝちすされどこの烟草屋にハさるざぶ
るこ(*)どもハただひとりもあらざれバなかなかに旅の

こゝハのどけからましとてかうことさらにとめきてやどれる
も多かるをかの女どもハ玉の杯(*)底なきなどハいはでただ
くだけたるたうわんのたぐひにやおもふらしとをかし
○廿五日けさもとくおきけれどずさのをのこよべよりかしら
いたきよしいひてけさハ朝飯だにえものせねば己(巳?)になる
までたゆたひをりされどいさゝかにてもゆかまほしきよし
いへば例の竹輿にのせつゝゆくにあやにくに御油すぐるほど
より雨いミじうふり出ぬ雨衣アマギヌうちきつゝゆくにいよいよ
ふりまさりて吉田にちかくなるほどハただしべなど
たてたらむやうなればたれもたれもあゆミわびぬずさのをのこ


*くぐつだつもの くぐつ 遊女(旺古)
*大江定基・光行 ともに不明。
*ざぶるこ 遊女浮かれ女(旺古)
*玉の杯 「万にいみじくとも色好まざらん男はいとさうざうしく玉の杯の底なき心地ぞすべき」(徒然草百十三段)

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