資料考察

狂歌とは何なのか

筆者:遠藤雅義

江戸時代中期から後期にかけて大流行した狂歌ですが、いまはほぼ名前を聞かなくなってしまった歌なので、どういうものが狂歌なのかわからない人が大多数だと思います。かく言う私もその一人でした。

私のご先祖さん(遠藤春足)が狂歌師で、我が家に狂歌関連の資料をたくさん残していることもあったため、この機会に狂歌とはどういうものなのかを調べてみました。その結果わかった「狂歌とはどういうものなのか」を私なりに述べてみたいと思います。

記事概要
狂歌は、江戸時代中期から後期にかけて庶民の間で大流行した、5・7・5・7・7の形式で詠まれる歌です。和歌が「雅な風情」を「雅な言葉」で表現するのに対し、狂歌は「俗な風情」を「雅な言葉や平易な言葉」で詠むのが特徴です。現代に伝わっている狂歌の多くは社会風刺や滑稽さを含みますが、実際には特定のテーマに縛られることなく、庶民は自由に狂歌を詠むことを楽しんでいたと考えられます。現代においても、「本歌取り」「縁語」「掛詞」などの技法を活かした短歌は、狂歌と呼んで差し支えないでしょう。狂歌が特別なものではないことを知って頂ければ幸いです。

※なお、本記事はあくまで著者である遠藤の考えを述べたものです。学術的な正しさは担保されていませんので、あらかじめご了承ください。

狂歌とは

狂歌は5・7・5・7・7の形式で言葉を並べたものです。江戸中期から後期にかけて大流行しました。江戸中期と言えば、町人文化が花開いた頃。庶民にとって「狂歌」とは「すごく面白い歌」というものだったのではないかと思います。

なお、狂歌の「狂」は「くるう」ではなく、「普通とは違う」というニュアンスで捉えられていたのではないかと思っています。狂言(日本流の喜劇)の「狂」と同じ系統の意味ですね。

Question
「町人文化が花開いた頃」とあるけれど、それまでは町人文化はなかったの?

それまでは貴族や武士など支配者層が文化の中心だったと言ってよいと思います。それが江戸中期に文化の中心が庶民に移っていったわけですが、そのきっかけになったのが印刷技術の進歩だと考えています。

浮世絵がわかりやすい例ですが、一般大衆向けの印刷物などが広く流通するようになったおかげで、庶民が文化に大きく関われるようになったわけです。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公蔦屋重三郎のように、庶民でも本を出したりできるということが、どれほどインパクトがあったことか。

いまは X(twitter)などで一人ひとりが情報発信できる時代なので、庶民(普通の一個人)が文化に関われるのは当たり前のように思うかもしれませんが、当時はそうではなかったのですね。

狂歌と短歌の違い

狂歌も短歌も5・7・5・7・7の形式の歌です。というか、狂歌自体が短歌の一種と言ってもよいものだと思います。

この5・7・5・7・7の形式の歌が、現代を含めて時代とともにどのように移り変わっていったのかを述べることで、狂歌とはどういうものなのかを述べたいと思います。

先にキーワードを述べておくと「雅な風情と俗な風情」と「風情と心情」になります。

和歌(古典短歌)と戯れ歌(俳諧歌)

和歌(古典短歌)は基本的に貴族のための歌です。この特徴は「雅な風情」を「雅な言葉遣い」で歌ったものです。代表的な和歌を3首取り上げてみましょう。

唐衣 着つつなれにし つましあれば
はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ   在原業平

花の色は うつりにけりな いたづらに
わがにふる ながめせし間に   小野小町

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば   藤原道長

なんとなく雅な感じがしますよね。このような和歌に対して、当時から戯れ歌(俳諧歌)と呼ばれる歌がありました。これは「俗な風情」を歌ったものです。

むめの花 見にこそつれ うぐいす
ひとくひとくと いとひしもる   詠み人知らず

現代語訳:梅の花を見に来たというのに、鶯が「人が来る、人が来る*」と鳴いて、嫌がりながらも(梅の木に)居る。
* 鶯の「ホーホケキョ」の後に続く、谷渡りの「ケキョクゥ、ケキョクゥ」と鳴く声を「ひとくひとく」と当てています。
* 梅と鶯はお似合いの取り合わせということで男女関係をほのめかしています。この場合は、男女が逢っている場面で、片方が「他の人が来る」と言って嫌がっているとも取れます。

この戯れ歌は貴族のお遊びであり(正調から外れた歌)、いかに表向きは雅っぽい言葉遣いで俗な内容を歌うかがポイントでした。そのためのテクニックとして「本歌取り(パロディ)」「掛詞」「縁語」という手法を用いることが多かったようです。

俳諧歌と狂歌(江戸短歌)

江戸時代中期に狂歌が大流行したわけですが、この狂歌は俳諧歌の流れを汲むものです。当初は下級武士の間で流行し(唐衣橘洲が歌会を催したのが始まり)、徐々に町人に浸透していきました。

・俳諧歌
 ・貴族の歌(正当な歌である和歌に対するおふざけの歌)
 ・俗な風情を雅な言葉遣いで綴る(和歌の教養を必要とする)

・狂歌
 ・庶民の歌(俳諧歌がベースにあるので技法を継承している)
 ・俗な風情を歌う。歌い方でざっくりの派閥あり。
  ・できるだけ雅な言葉遣いを使う派:唐衣橘洲、鹿都部真顔
  ・日常的な平易な言葉遣いを使う派:四方赤良(蜀山人)
  ・その中間:宿屋飯盛
  ※この派閥については筆者遠藤による勝手なグループ分けです。

俗な風情を歌う件について、実際の狂歌で確認してみましょう。

菜もなき 膳にあはれは 知られけり
しぎ焼き茄子の 秋の夕暮   唐衣橘州

世の中は 色と酒とが 敵なり
どふぞ敵に めぐりあいたい   四方赤良

歌よみは 下手こそよけれ あめつちの
動きいだして たまるものかは   宿屋飯盛

きぬぎぬは 瀬田の長橋 長びきて
四つのたもとぞ はなれかねける   蔦唐丸

そのもとは 愛よりいでて 藍よりも
あをうなつたる 恋病こいやみのかほ   雲多楼鼻垂(遠藤春足)

言葉遣いに関して、この中では四方赤良(蜀山人)の狂歌が最も俗っぽい言葉が使われているのがわかると思います。なお、あくまでも傾向であって、唐衣橘洲が平易な言葉遣いで歌を詠むこともあれば、四方赤良が雅な言葉遣いの歌を詠むこともありました。

なお、私のご先祖さんである遠藤春足は『六々園漫録』にて「狂歌とは俗なることを雅に詠う」と述べているので、一見すると雅な言葉遣い派だったように思われるかもしれません。

しかし、これには補足が必要だと考えています。というのも、狂歌が大流行するにつれて、猫も杓子も5・7・5・7・7の形で言葉を並べれば狂歌の出来上がり!のような感じになり、狂歌のレベル崩壊が起きていたのだろうと推察しているからです。

実際に春足は『六々園漫録』で「狂歌を学ぶには和歌や古典を学ぶ必要がある」と述べています。春足は狂歌師として指導する立場にもあったため、ある一定のレベルを担保するためにも、古典の教養を身につけるように指導していたのだと思います。

春足のお師匠さんである宿屋飯盛は『雅言集覧』という「雅な言葉遣い」を集めた辞書のようなものを作りましたが、これもまた狂歌を歌うには雅な言葉遣いを知っておく必要があったためと思います。

ただ、そのような辞書まで作った宿屋飯盛ですが、我が家に残されている飯盛の狂歌を見た感じではコテコテの「雅な言葉遣い派」ではなく、中間くらいの立ち位置だったのではないかと思われます。(これについては蜀山人が言葉遣いを崩しすぎた、とも言えるかもしれません)

狂歌のテーマは社会風刺や滑稽なのか?

Google で「狂歌とは」と検索すると、「狂歌は社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込んだ歌」と解説されている記事がたくさん出てきます。しかし、私自身がご先祖さんが残した狂歌資料を見た限りでは、その説明は少し違うのではないかと考えています。

というのも、確かに代表的な狂歌として挙げられるものは「社会風刺・皮肉・滑稽」が効いている歌ですが、そうではない狂歌もたくさんあるからです。

そのため、本記事の冒頭で挙げたように、庶民にとっての狂歌は「すごく面白い歌」だったのではないか、と大変シンプルな定義をもってきたわけです。

そして、多くの庶民が「すごく面白い」と感じやすいテーマが、当時は「社会風刺・皮肉・滑稽」を盛り込んだ歌だったと理解すべきものと思っています。

それまでの和歌は貴族同士がお互いに受けるような内容を歌っていただけ。(当然、貴族同士なので、雅な内容を雅な言葉遣いで表現するのが筋です)

それに対して狂歌は庶民同士がお互いに受けるような内容を歌っていただけ。このように誰に見てもらうかが変われば、自然と歌の題材も言葉遣いも変わってしかるべきです。

何が言いたいかと言うと、当時の人たちは「狂歌は社会風刺・皮肉・滑稽を含めないといけないから、そういう歌を作ろう」のように思って、狂歌を作っていたわけではないということです。

あくまで仲間に受けそうな歌を詠んでいたというだけなので、後世の我々も狂歌をそんな堅苦しく捉える必要はない、ということを述べたくてつらつらと書き記した次第です。

参考:宿屋飯盛(六樹園)が『狂歌続万載集』を出版しようとして狂歌を募集した広告

募集する狂歌のお題として、「四季」「恋」「雑(その他)」「何でも可」とあります。このように狂歌は何でもありだったわけですね。

狂歌と短歌(近代短歌・現代短歌)

江戸時代中期から後期にかけて大流行した狂歌ですが、明治期には消滅してしまいます。その理由は定かではないものの、次の2つが大きいのではないかと考えます。

・狂歌が広まるにつれて古典の教養をもたない人たちによる狂歌の比率が高まり、質的な低下を招いた。(単なる5・7・5・7・7で言葉を並べるだけでは質の高い歌は作れない)

・幕末から明治にかけて、日本古来の古典を学ぶ人が激減した。(西洋に植民地化されないためにも、西洋の学問を率先して学ぶ必要があった)

この2番目の理由に関連して、実はこの時期に「日本語」が統一されたと言えます。というのも、当時は書き言葉と話し言葉の乖離がはなはだしいだけでなく、書き言葉には「漢文」「和漢混淆文」「仮名文字主体の和文」「俗な会話文」があり、話し言葉には「各地方ごとの方言」「武家言葉」などがありました。同じ日本と言えど、言葉が通じないことは普通にあったわけです。

このような言葉が統一されていないことは、大きな障害だとみなされ、これが理由で日本人は西洋人に比べて知的レベルが低いのだという論調までありました。一時は漢字廃止論も検討されたほどです。(参考:明治維新期「国語」創成への歩み

そんな時代ですので、政府の要職につこうとする者や役人が日本の古典を学ぼうとするはずもなく(時代的にそんなことをしている余裕もなく)、狂歌らしい狂歌を作れる人もいなくなって自然と消滅していったのだと考えています。

ただ、5・7・5・7・7の形式で歌を歌うことだけは残りました。明治も少し落ち着いた頃、また5・7・5・7・7の形式で歌が歌われるようになったのです。そりゃあ、ほんの少し前まで猫も杓子も狂歌を歌っていたのだから、何か作りたくなるのが人情というものでしょう。

この頃の歌は「短歌」と呼ばれ(我々からすれば「近代短歌」)、個人の心情を歌にするという大きなパラダイムシフトが起きました。(風情から心情へ)

いちはつの 花咲きいでて 我目には
今年ばかりの 春行かんとす   正岡子規

のど赤き 玄鳥つばくらめふたつ 屋梁はりにゐて
足乳たらちねの母は 死にたまふなり   斎藤茂吉

西洋的な価値観に触れる機会の多かった人ほど、西洋の個人主義の影響を受けたと思われます。その結果、それまでの集団的な雰囲気である風情を歌うものから、近代短歌は自己の表出として個人の心情を題材とするものにメインが移っていったのです。(正岡子規がそのように主導したとも言えるかもしれません)

近代短歌と現代短歌

最後に、第二次世界大戦前と戦後で、近代短歌・現代短歌と区別されますが、ここには大きなパラダイムシフトは見られません。個人の心情という題材が変わっていないためです。表現の仕方がより口語的になり、より内面的になったという傾向はあります。

この味が いいねと君が 言ったから
七月六日は サラダ記念日   俵万智

ゼラチンの 菓子をすくえば いま満ちる
雨の匂いに 包まれてひとり   穂村弘

なお、ここまで和歌から始まり現代短歌まで概観してきましたが、言葉遣いという観点から見れば、常に「その当時流の言い回し」にしようという圧力がかかっていたこともわかります。

和歌からスタートして、その歌を届ける相手に合わせて、言い回しが変わっていったというわけですね。

・和歌:貴族
・狂歌:町人
・近代短歌:日本国民(統一された日本語)
・現代短歌:日本国民

現代の狂歌

ここまでの論に基づけば、狂歌とは「本歌取り」「縁語」「掛詞」を駆使して、心情よりも「風情」を歌ったものと言えます。

その観点で言えば、現代でも狂歌を詠むことはまったく問題なく可能です。当世風な狂歌として、本サイトで資料解読などをしていただいている抜六先生の狂歌を3首ご紹介します。

・本歌取りの歌例

  黄金ひかるの君から
この世をば わが世とぞ思ふ 四権よんけん
欠けたるところ 無しと思へば   抜六

 本歌:この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば
 *黄金の君 大金持ちのトランプ 大河ドラマ「光る君へ」の藤原道長 を掛ける。
 *四権 大統領・上院・下院・最高裁

・掛詞の歌例

冬籠ふゆごもり 春足文書 ひもとけば
笑ひ満載まんさい 狂歌書きょうかしょの山   抜六

 1 枕詞 冬籠り→「春」にかかる。
 2 掛詞 まんさい→満載と万載(万載狂歌集)をかける。
      きょうかしょ→狂歌書と教科書をかける。

・縁語の歌例

さるものを 追へば代わりに しかと来る
いのしし柵を やぶる神山   抜六

 動物の縁語を散りばめた歌
 *さるもの 去るもの 然る者 猿 を掛ける。
 *しかと 然と(しっかりと) 鹿と をかける。
 *やぶる 神 にかかる枕詞 ちはやぶるを匂わす。
 *神山 徳島県名西郡にある地名。山奥にある町。

「狂歌」と言われると何だか近寄りがたい気がするかもしれませんが、ぜひ気軽に5・7・5・7・7の音に合わせて歌を詠んでみてはいかがでしょうか。それが「狂歌」に近いか「短歌」に近いかは考え方次第だとは思いますが、境はあいまいですので、狂歌だと思えば狂歌に、短歌だと思えば短歌に、といった具合に肩肘張らずに好きなように考えてみればよいのだと思います。

特に「本歌取り(パロディ)」は取り組みやすいので、本歌取りから始めてみるのがおすすめです。本歌取りと言っても、古典に限る必要はありません。俵万智のサラダ記念日を本歌取りするのもよいと思います。

そして、歌を作ってみたときに、もし狂歌のほうに親近感を持たれたなら、本ホームページの「狂歌」タグがついている記事をご覧いただければ、おそらく参考になることもあるかと思います。ぜひご活用いただければと思います。

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