書簡

春足宛て(鹿都部)真顔の返書 婿死去に伴う多忙 春足が求めていた「笑林広記」を見つけた

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-2-2

当月六月十一日之貴翰同下旬
落掌委敷拝誦仕候先以此節
不順之気候ニ候得共愈佳適
御入被成奉萬福候扨は去冬中は
貴作之物語拝借被仰付難手放候夜
数篇拝見仕候而楽ミ打在候中不計
婿ニ而候柳高岐と申者霜月中旬ゟ
冷症之?寒ニ而不得止事老拙仮宅え
罷越昼夜看病仕居寒冬候而も春ニ
成候事を不覚心配と而二日を過し候所??
?用無施二月廿八日下無仕?其後は又々

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-2-2

追福仏事より家督相続等ニ而日々?
面?儀ニ心を苦〆候故ニや老拙旧疾を発
動気甚舗日々平臥?用を役と仕候外ハ
万事放下仕何事も打忘レ?ニ而健忘と?
申様ニ相成申斗六月ゟ当月ニ至ル迄月並も
休会仕諸国之文通も如能越打絶罷?候
是等之仕合ニ而再度之御文通ニ返書も不呈
失敬之段偏ニ御宥恕可被下候右之病中ニも
御頼之笑林広記之儀ハ折々?出し書林え
催促ニ及候へとも近来右之?一向払底ニ而
尋兼候由申中??和泉屋庄次郎ゟ書林方ゟ

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-2-2

此一本参候間早速可呈?致居是又例之??之
本性ニ而日々及延引恐入候唯今ニ至而彼是申候而ハ
申訳か間舗御承知も御座有間舗存候得共去冬
以来右件之病人と申老拙家督之懸り婿を
失ひ候愁嘆ニ而世間之義理も約束も打なくりに
相成候事ニ而御遠聞貴下近来漸袖も乾キ候
晦ニ而呈返書候御腹立を和被下御面倒なから
一通り御??訳可被下候
扨此笑林広記ハ元来御聞及之北山先生所持之
作ニ而孝経楼蔵書之印有之菊崖と申人も
近来文人中ニ名をしられ候蔵書家にて??

撮影:四国大学 / 分類:手鑑1-2-2

孰レ好本ニ而??落丁なと無之全???????
浪華ゟ御買入之本ニ而御見くらへ買上被下候はゝ御求置
??永くいはゆる六日の菖蒲にハ候へとも等閑ニ捨置ぬと
申品を御?ニ入れ?此度相?セ〆
寛永二月旦評是ハ珎物多謝仕候所受仕候而永ク
文庫中ニ納メ可申候
ケ計之手紙を認候ても眩暈?行而くハしく
????御免可被下候
返々しれもの物語本???とも一字の??なく?
?と?早く御出板奉待候
六々園?君           真顔

語注

*笑林広記 清代の『笑林広記』(著者は「游戯主人」と名乗るがその伝記は不明)が近世における集大成であり、以後のものは以前の作品の焼き直しばかりとなり、衰退していくことになる。(Wikii)春足はこういう笑話に関心があったようだ。
*菊崖 岡部菊崖 大窪詩仏と共著あり。
*役と もっぱら(旺古)
*鹿津部真顔1763(宝暦三年)ー1829(文政十二年)江戸時代後期の狂歌師。戯作者。鹿都部真顔とも書く。号に紀真顔・狂歌堂・鹿杖山人・俳諧歌場・万葉亭・四方歌垣・四方真顔など。1782(天明二年)狂歌界に入り、師は元木網で1784(天明四年)太田南畝門下となり算木有政・銭屋金埒・らと「スキヤ連」を結成した。やがて、宿屋飯盛・頭光金埒らと狂歌四天王と称された。1794(寛政六年)南畝から「四方姓」を譲られ、飯盛と化政期の狂歌界を二分した。真顔は天明狂歌が奔放無軌道に陥ったことを是正しようと、鎌倉・室町期の狂歌を本来の狂歌であるとする「俳諧歌」を提唱したが、一般からは親しまれず、結果として狂歌の衰退をもたらした。(wiki)

気づき

○読みにくいこと甚だしいが垣間見える情報①「貴作之物語」とは後にも出てくる「白痴物語」をさすのだろう。その草稿を真顔にも見てもらったようだ。②真顔には婿の死など不幸があり、狂歌の活動は中止していたようだ。④(春足が)求めていた「笑林広記」を見つけたという知らせ等。
○鈴木馨氏の年譜によれば文化十一年春江戸下向の折「狂歌堂真顔を訪ふ」とある。
○「白痴物語」刊行は同年冬。

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