(本文省略)
文政二年己卯春三月 江戸 亀田鵬斎撰并書 広瀬群鶴鐫
語注・気付き
○「館林木戸町・亀田鵬斎について」という見出しのHPに次の記事あり。「4 赤穂義士の碑 その後、鵬齋は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに感動し、「赤穂四十七義士の碑」を泉岳寺に建てましたが幕府はこれを許さず般若心経の供養塔にしてしまい、今泉岳寺に建っている鵬齋の碑は残っていた拓本をもとに明治になってから有志によって再建されたものです。」 この文章の通りだとすれば、この拓本は幕府が供養塔に代えるまで建っていた元の碑の拓本であろう。
徳田武氏ご教示コメント
これは楷書で書いてありますが、鵬斎の手ではなくて、別人が清書したものと思います。確か鵬斎は、四国にも行った事があるので、その時にでも遠藤氏に示して、清書させたかと思います。この碑文は泉岳寺にもあって有名な物ゆえ、遠藤氏もきちんと清書して写したのか、と思います。
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