書き物軸物

(本居)大平門の前田ぬしを介して野呂介石に山水画を描いてもらったいきさつ、及びその絵のことを詠んだ長歌と反歌

撮影:四国大学 / 分類:20230909-J30

いそのかみ古事記に久延比古は足あるかすて天の下のあらゆることをことことにしります神といちしろくへつたへてあれと神ならぬ世の人たれかあしゆりて千里のをちの海山をしることあらむゐなからにみること/
えめやしかれともうれしよものハかたかけるこれのうつし絵居なからにいともはるけき人国のその境をもあしゆかでまさめにそ見るかくのみのものにしあれハこれの絵をふかくし好ミこのかたをあつくしめてゝ玉しきの/
都に鄙に名にたくる絵師にあとらへうみ山のかたゑかゝせてこれをしも見てしあれともあるは筆つよきにすきあるハ筆かろきにすきて赤ほしのありぬことのみかにかくにおほかるものを木の国の/
殿の殿人こくふねの介石の君かしのみのひとりぬけいてゝ天の下にならふ人なく世の中にたくふ人なき此道のひしりときけば此老翁の筆をこそ見めこの君の絵をこそ見めととしころにしぬひてあれとたは/
やすくこひてやるへきあたりにもあらすしあれハ大ふねのたゆたひをるを春辺さく藤の垣内の其うしハおなし国内にすみなしておなし殿にしつかへます(?)君にしあれハこれこそハよきたつきとし玉梓のたよりにつけ/
て夢の根のねもころころにかくとしもこひのミやれハ此大人の其をしへ子根芹つむ前田のぬしハふることの学ひのいとまかの老翁のもとにもゆきて絵かくわさならひてあれハ此人にかくとつけつゝ此人ゆこひきこゆれハかの老翁も/
うけひきましてみゝつから筆とりもて海山のはしきさまをしまくハしくうつし給ひてはろはろにおくり給ひぬこれにます宝やあると庭すゝめをとりよろこひとこといふ壁にかけつゝ朝宵にむかひて見れハ群山は雲井/
にそひえ松杉はしみゝにおひぬその木々のひまより見れハ君か根のこゝしき?ゆ白布をはえたることことみなきりておつる瀧ありその瀧のなかれなかれて末ハしもそこもひとつと見るまてにいとも真ひろき淡海と/
なりてそ見ゆるそのうみのはたの広ものさものをハとりえむもれと小ふねをハ浪にうかへて釣したる翁もあれハ網引する人もありけりけにハ芦さへおひてその中ゆ水のおもてにつくり???高き家にハ/
こもすたれななかは巻あけかき数ふみたりよたりかおもふことあらぬさまにて酒飲みてかたらふもありつくつくとみつゝしあれハ我もその人にましらひもろともに遊ふか如くむつかしき業ことにすれいきとほるおもひもはれて/
そのうミの広きかことく其水の清きか如くすがすがしきこゝろになりぬうつし絵見れば  くみもせすむすひもせねと見れハたゝこゝろをきよくなせる山水    遠藤春足

語注・気付き

*介石の君 野呂介石 野呂 介石(のろ かいせき、延享4年1747~ 文政11年1828)は、江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海、桑山玉洲とともに紀州三大南画家と呼ばれている。(wiki)

○要旨 ①居ながらにして遠く離れた境、まだ見ぬ国のすがたを見ることが出来るのは絵のお陰である。②名だたる絵師の絵を求めるのはそのためである。③しかし絵師によって個人差があるため気に入った絵に出会うことは難しい。④紀伊の国の(野呂)介石翁は私が好きな絵師の一人である。⑤長年手に入れたいと願っていたがなかなかかなわなかった。⑥ある時野呂翁が本居大平翁と同じ紀伊の国に住み、同じ紀州侯に仕えているということを聞き、そのルートを頼って頼めば描いてもらえるかも知れないと気づいた。⑦幸い大平翁の弟子に前田という人が居り、古学を学ぶ傍ら野呂翁について絵も習っているということを聞きこの人を介して野呂翁に絵を描いてもらうよう依頼した⑧野呂翁は自ら筆をとり山水の絵をかいて送ってくれた。⑨私はその絵を壁(床の間)に掛け、朝夕ながめた。⑩それは松杉の間から見える群山、瀧、広い海、小舟、漁をする人などであった。其絵を眺めていると憂鬱なことも忘れ心が澄み行く思いがした。

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