(題字) 六々園漫録一 軒乃松風
軒乃松風
六々園漫録一
軒乃松風
狂歌の説(狂哥の歴史)
○狂歌の説
おほよそ狂歌のおこりを考るに夷曲の字ハ日本
書紀に見え夷振とハ古事記にしるしてともに比
奈文里と訓ことなれともすへて某曲といふことハいに
しへのうたひものゝ名にしてこれ雅風にむかへて
鄙風といへる意にハあらすただ万葉集にはしめて
戯咲歌とありたゝし此集にさる名ハ見えされとも
清(*)輔朝臣の奥義抄にそかくハ記されたり是そ
狂哥てふものゝはしめにはありける其後古今集
に俳諧哥の部ありてより次々の集なる?も皆?
代々の狂歌なりまたゑひすうたといふことも同
古今集の序註に見え??ともこはかの日本
書紀の夷曲の字をよみ誤りたるものなるへけれ
ばたしかなる名にハとりかたくなん中むかしにし
てハ後鳥羽院の御時水無瀬の離宮の歌合に和哥
を柿のもと狂哥を栗のもとゝめされ有心体にむかへ
て無(*)心体と名つけられ給ひしこと井(*)蛙抄に見えた
りある人ハこハ其作者の巧拙と堪不堪とを分ち
てよはせ給ひたるにこそあれ和哥と狂哥とをわか
ちて名つけ給へるにはあらさること後(*)普光院園殿
の筑波問答後成恩寺殿のさよの寝覚等に明らか
なれハこをもて狂哥の??ありとせんハいかゝなりと
いへとそハ此称のミにもあらすかの夷曲の字もまた
夷?哥の名もともにあたなりといふものにハあらされバ
是もはやくよりしかよひき??たらんにハ??と
?まゝならんもあしかる????なむたとへハ和歌と
いふ?そのもとハ唐詩といふにむかへていへる名に??
てこも正しき名といふにハあらされとも尚あらためかたき
ことになんまた狂歌??(とい)ふことも白氏文集に見
えて其もとハからの文字なりさて此道に其名高?
う聞えたるハかの後鳥羽院の御時にてハ暁月坊
其後にしてハ長頭丸雄長?なりされとあまねく世
にもてはやさるゝことな??たるハ享保のころにい
たりて浪華の油烟齋よりそおこりにける??其後天
明のはしめ大江戸に四方赤良唐衣橘洲なといへる
*夷曲 ひなぶり
人々の世に出きてしきりに此道をとなへつゝこれかの
宋玉の所謂下里巴人の曲なりといはれし?そ
のかなれをくめるもの大江戸????四方の国々
まていと多くして?る??しうたふものまこと
に数千万人となれるになむ
*清輔 藤原 清輔(ふじわら の きよすけ)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。六条藤家3代。家集に『清輔朝臣集』が、歌学書には、『袋草紙』『奥義抄』『和歌一字抄』などがある。(wiki)
*無心体 むしんれんが 口語を用いて卑俗で滑稽をねらった連歌。「有心の連歌」に対することば。((旺古)
*井蛙抄 歌論書。頓阿著。貞治三年1364ごろ成立。
*後(*)普光院園殿 二条 良基(にじょう よしもと)は、南北朝時代の公卿、歌人であり連歌の大成者である。従一位。摂政、関白、太政大臣。二条家5代当主。
*後成恩寺殿 一条兼良(読み)いちじょうかねら 「いちじょうかねよし」とも 室町中期の公家、学者。経嗣(つねつぐ)の子。桃華老人、三関老人、東斎と号す。摂関家の当主として摂政関白等を歴任。その博学多才は当代随一とされた。
*暁月坊 鎌倉時代の歌人。 本名,冷泉為守。 父は藤原為家,母は阿仏尼。 和歌の家に生れ,遁世後関東に住み,『玉葉和歌集』などの勅撰集に7首入撰,『柳風抄』などにも和歌がみえるが,近世の狂歌の祖と諸書に説かれ,さまざまな伝説のある人物。(google)
*長頭丸雄長松永 貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) – 承応2年11月15日(1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。名は勝熊[1]、別号は長頭丸(ちょうずまる)
*雄長老 雄長老(ゆうちょうろう)(1547―1602)安土(あづち)桃山時代の禅僧、狂歌作者。名は永雄英甫(えいゆうえいほ)。京都南禅寺の住持にまでなったので雄長老とよぶ。別号、武、小渓、玩隠叟(がんいんそう)。若狭(わかさ)(福井県)武田氏の出身で母は女流狂歌作者として名高い宮川尼(みやがわに)、一代の武人歌学者細川幽斎(ゆうさい)は叔父にあたる。(google)
*油烟齋 1654~1734 江戸時代の狂歌作者。永田氏。名は良因,のち言因。通称は善八,家号は鯛屋,号は由縁斎,信乗軒,精霊洞,霜露軒,珍菓亭,又生庵,鳩杖子,長生亭など
*宋玉 宋玉(そうぎょく、生没年不詳)は、戦国末期(紀元前3世紀頃)の楚の文人。屈原の弟子とも後輩ともいわれ、「屈宋」と併称される。漢の韓嬰の『韓詩外伝』や、劉向の『新序』「雑事第一」および「第五」に宋玉に関する逸話が記載されている。(google)
○要旨 狂哥の歴史についてざっと述べている
①古事記に夷振、日本書紀に夷曲という文字がみられ、共に「えびすぶり」と読む。これは田舎風という意味ではなく「雅風」に対する言葉である(つまり俗ということ)。
②藤原清輔の「奥義抄」には「万葉集に「戯咲歌」という言葉が見られると書いてあり、これは狂哥の元祖と考えられるが確認は出来ない。
③「井蛙抄」に「後鳥羽院主催の「水無瀬の離宮の歌合」(どの歌合を指すかは不明)では和歌を「柿の本」狂歌を「栗の本」と区別し、和歌を「有心体」狂歌を「無心体」と称した」と書かれているがこの区別の意味については諸説ある。
④この道(後者をさす」では後鳥羽院の頃の暁月坊、その後の長頭丸、雄長老、江戸期に入って浪華の油烟齋が有名である。
⑤天明に至って四方赤良、唐衣橘洲などが現れ、狂哥が全国にひろまった。
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