以下の翻刻・訓読・現代語訳・コメントは徳田武氏のご教示による。
王弇州作左逸短長、一時
遊戯、以資談柄。但以其修
辭立説、模擬逼真、人喜
其行文之妙、不復以戯筆
視之也。阿波人遠藤春香
新着(著)白癡物語、亦復戯草
耳。其所載者、多是生平耳
目所觸、可喜可咲之説話、
鄙俚猥褻、無所不至、使人
解頤捧腹、不能自已。而其
辭則古澹嫺雅、一如讀宇
治拾遺・古今著聞等書。是
豈尋常作者、所可得彷
彿哉。其事雖戯、而其文不
戯矣。雖曰我邦出王弇州、
亦未為悖也。春香専攻國
學、遊本居大平之門、又嗜
狂歌、師六樹園。宜矣、其文
字鍛錬之巧、乃能如此。及索
其序、不得不賞而言之。乙酉
夏五.五山池桐孫
訓読
王弇州(えんしゅう)は左逸短長を作る。一時の遊戯なるも、以て談柄に資す。但し其の辭を修め説を立て、模擬して真に逼るを以て、人は其の行文の妙を喜び、復たは戯筆を以て之を視ず。阿波の人 遠藤春香、新たに白癡物語を着(著)はす。亦復た戯草なるのみ。其の載する所の者は、多くは是れ生平に耳目の觸るる所、喜ぶべく咲ふべきの説話にして、鄙俚猥褻、至らざる所無く、人をして頤(おとがひ)を解き腹を捧げて、自(みず)から已むこと能はざらしむ。而して其の辭は則ち古澹嫺(こたんかん)雅(が)、一に宇治拾遺・古今著聞等の書を讀むが如し。是れ豈尋常の作者の、得て彷彿すべき所ならんや。其の事は戯れなりと雖も、而も其の文は戯れならず矣。我が邦に王弇州を出すと曰(い)ふと雖も、亦た未だ悖(もと)れりと為さず。春香は専ら國學を攻(おさ)め、本居大平の門に遊び、又た狂歌を嗜み、六樹園を師とす。宜(むべ)なり矣、其の文字の鍛錬の巧、乃ち能く此くの如くなること。其の序を索めらるるに及び、賞して之を言はざるを得ず。乙酉(文政八年、一八二五)夏五、五山池桐孫(菊池五山)
現代語訳
明の王弇州(世貞)は『左逸短長』という書を作った。一時の遊戯で、それを話題の助けとする程度のものであったが、但だ、文辞を修めて説を立て、模擬して真に逼っているので、人はその文章の妙を喜び、もはや戯作として之を視なくなった。阿波の人、遠藤春香は、新たに白癡物語を著わした。これもまた戯作である。それが載せている内容は、多くは平生に見聞しているものの、喜ぶべく笑うべき説話であって、卑俗で猥褻な事にも、行き届かない所が無く、読者をして笑い出し、腹を抱えて、自分でも抑えられなくさせる。そして、その文章はと言えば、古風典雅で、まったく『宇治拾遺物語』や『古今著聞集』等の書を読むような思いをさせる。これがどうして尋常の作者が模倣できるような物であろうや。その内容は戯れではあっても、その文章は戯れの物ではないのだ。我が国に王弇州を再来させたと言っても、過言だとは言えない。春香は専ら国學を修め、本居大平の門に遊び、又た狂歌を嗜み、六樹園(石川雅望)を師としている。当然だ、その文章の鍛錬した巧みさが、このようになることは。この作品の序を求められたのに際して、賞賛を言わざるを得ないのである。乙酉(文政八年、一八二五)夏五(月)、五山池桐孫
コメント
『白癡物語』(文政八年、一八二五序)は、師の石川雅望の雅文体咄本『しみのすみか物語』(文化二年、一八〇五刊)に傚った雅文体咄本で、挿絵までも同書の画家を用いたと思しい。そして、該作は、武藤禎夫編『噺本大系』(昭和五十四年十二月三十日、東京堂出版)第十九巻に初めて翻刻されたが、この五山序は、影印されているだけで、訓読も現代語訳も施されてはいない。そこで、徳田は訓読と現代語訳を施し、あまり進んでいない該作の研究の一助たる事を目指した。該作の書肆西村屋與八の広告(摺りもの3-7-3)に名が見える『笑林広記』『笑府』などの中国笑話の影響がどれほど有るかは、今後の課題であるが、武藤禎夫が指摘している一例(『笑府集成』平成十八年三月、太平書屋)だけを挙げておくと、巻下の第十七話「某のをんなめさうじミの事」は、原本『笑府』巻九、閨風部「焼香」と同一の話である。即ち、男が女の元に行って求めると、女が「明日は神詣でするので、精進中だ」と断るので、男が寝てしまうと、その内に雨が降り出し、女が男を揺り起こして、「喜ばしい事に雨が降り出した」、と言う話である。該話は、明和五年和刻『笑府』巻下にも収められるが、春足がいずれの本に拠っているのか、または双方を参照しているのか、という問題は、未詳である。
また、菊池五山が漢文を寄せている事は、「遠藤萃雅墓碑」(書き物2-35-1)と並ぶものであって、遠藤家に於ける五山の位置の重さを語るものであろう。手本とした『しみのすみか物語』は、雅文体であるだけに、咄本としては高踏的で知的なものであったが、春足の該作は、より卑俗で猥褻味が濃い物となっており、それだけに滑稽も直接的で分かりやすいものとなっている。但し、話数は、『しみのすみか物語』より少ない。
語注・気づき
◯遠藤春香 遠藤春足の別号?(遠藤家の家系一覧には春足・春香と記載されている)
◯春足が『笑林広記』を求めていたことは、鹿都部真顔からの書簡1-2-2 に記載されている。
◯末尾の「恭斎河三千書」は市河恭斎のこと。市河米庵の養子。六樹園からの書簡3-10-2に「米庵多用のため、悴にしたためさせた」旨の記載がある。
*市河恭斎(いちかわ きょうさい、寛政8年(1796年) – 天保4年6月27日(1833年8月12日))は、江戸時代後期の日本の篆刻家である。名は三千、字を桃翁、恭斎は号で他に古学道人・学古庵がある。讃岐の人。稲毛屋山の子。備中庭瀬藩に仕えた。市河米庵の門下で書の才能が開花した。米庵に継嗣がなかったので請われて養子となる。性格は温和で人に好かれた。書はとりわけ小楷に優れ、小米と称された。詩文をよくし、篆刻に巧みであった。江戸下谷に住んだ。38歳で夭折した。墓所は荒川区本行寺。
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