かみしもミなしづまりぬ、雲井をわたるかりのこゑも、
所からにやあはれに聞きなさるる、から猫のねうねうと
なくにも、たれかはおきあかすべくとぞおぼゆる、されど
猶ねもやらで夜ひと夜うちかたらふ人もあり、あるは
塩屋のけふり風になびくをうらみ、又山川のあさき
瀬をくねるなどとりどりなり、あやにくにまらうどの
二三人きあひたるハ、せんすべなけれバ、例のいもうと
だつ人を出して、あへしらはす、おもへどえこそなど、
にくきことさへいふめり、あるハ熊野の神にちかひて
せいしに血をあえてとらせつるを、たがまことをかと
よろこぶ男もあるを、たけなる髪をおしきりてやれるを
うれしとだにも見ざるにや、かづらながらにたえ
ぬるも見へたる、はやうよりゐなかにやしなはれて、
舌だみてものいふ男の、よねかともいはず、手うち
たゝきて、をのこどもとくこといふ声いとむくむくし、
番の男きてかしこまれバ、ゐだけたかうなして
さけびいへるは、なにがしこそとのゝミうちにあり
ても名ある弓とりなれ、しかるにこよひいミじき
恥見たり、まづ此かたきとするさぶるこハいづちいに
たる、宵よりまち続けをれど、ふとかげをだに見せず、
こまもろこしよりわたせる名玉のごとく、われをば
わたあつきふすまにくゝみおきて、とりいろふものもなし、
にくしともにくし、これをもしのぶべくんばいづれ
をかしのぶべからざらん、此家のあるじこゝにゐてこ、
たいめんしていふべきことありとひぢもちいかめしく
してのゝしる、男、たいだいしき事、しばしのどめ
させ給へ、おもとに聞ゆべくといひて、たちてゆく、
おのれいづくへかにぐる、しやかしら打わりてんと
いひさまたちかゝるほどに、あそびきて、なに事をか
の給ふ、けののぼりれてくるしければ、しばしかしこ
にてつくろふとてうつぶしふして侍り、さなはら
だゝせ給ひそといひつゝ、手を袖にいれてかたのほど
いさゝかつミたれば、さバかりたけだけしくはやり
たるものゝにはかになへなへとをれて、ゑみがほ
つくりて、ひたひに手をあてゝ、わづらひ給へる事は
しらでまうしてなり、ゆるい給へといふも声ふるへて、
いとあまへたる面もちなり、さてひかれて屏風の
うちにいりぬ、あつれやうやうさまざまなる心々、おろか
なる筆にはかきとりがたくや
語注
*吉原十二時 文化五~文化十四の間、刊行。「悪所中の悪所であった吉原の情景を格調高い雅文で微細に描き出し、素材と表現との不均衡からかもし出される滑稽を意図した作品である。」(粕谷宏紀著「石川雅望研究」 この文章に続く狂歌篇では六々園の名で十一首、その外に阿波の狂歌人の十八首が入集している。
気づき
○丑時は夜中の二時。吉原では「泊まり客はこの頃までに床入りする」ことになっている。(『大吉原展・図録』)。ところが田舎出の客と見える男が案の定お目当ての女郎に振られ、大騒ぎし、はては大立ち回りまで演じている。歌舞伎のチャリ場を見るような滑稽な場面である。
○本書には『北里十二時』と題する異本が存在する。どちらが異本かについて日野、粕谷両氏の見解は食い違っている。当文書を含めて再考する必要があるのではないか。
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