遠藤春足関係年譜

遠藤春足に関係する年譜。本資料は鈴木馨氏(中京大学教授)が作成した遠藤春足年譜をベースにしています。

西暦和暦出来事 ※は阿波藍政関係事項
1625寬永2 ※寺島に藍方役所を置く
1724享保9 ※江戸売藍仲間三十六人指定 藍商として活動、最古参グループ(関東売36人の一人)
1733享保18 ※藍方御用場の設置
1754宝暦4 ※玉師株の制定
1756宝暦6 ※五社宮一揆おこる
1760宝暦10 ※玉師株の一時廃止
1766明和3 ※玉師株の復旧、明和の中興、藍玉代官所を設置(小川八十左衛門の建議)
1767明和4 ※藍の大市はじまる
1782天明21遠藤家五代目として一月七日に生まれる 要蔵と名づく
1783天明32 
1784天明43 
1785天明54 
1786天明65 
1787天明76 
1788天明87 
1789寛政18 
1790寛政29弟 昂美が生まれる
1791寛政310 
1792寛政411一月、母の多田氏津留子が没する
五月、父の橋本宇治右衛門正春(四代目)が33才で没する
要蔵が家督を継ぎ、旧姓に復し遠藤氏を称す。通称、遠藤宇治右衛門。
1793寛政512 
1794寛政613某法師につき句読を学ぶ
はじめて前太平記などの軍書を読む
1795寛政714 
1796寛政815 
1797寛政916 
1798寛政1017 
1799寛政1118十一月五日 祖母が没する
1800寛政1219宇治右衛門、郡代付浪人となる(献金二百金)
1801享和120友人玉屋仲三郎 古事記伝 古今集遠鏡などを示す。
和歌をよまんとして百人一首 初山踏 古今集拝聴 遠鏡などを読む。
※藍方代官所、徳島に藍問屋職四軒を設け藍玉売買の実務を管掌する。
1802享和221 
1803享和322※「享和三年八月 藍玉振売指留二付売仲間ヘ申渡究書」(阿波屋吉右衛門 遠藤宇次衛門)
※関東売場株の制定
1804文化123※「文化元年四月 藍玉屋名前帳」 八町堀三丁目安兵衛店 阿波屋吉左衛門
※「文化元年6月仲間定書」阿波屋吉右衛門(江戸町人名)◉(大印・蛇の目)遠藤宇次右衛門(仕入元名)
※関東振売の禁止 関東売藍商三十六軒
1805文化224※幕府、阿波藍関東積問屋三六軒を公許する
1806文化325 
1807文化426弟の昂美が江戸に行き、鈴木芙蓉につく。学従二年
※大坂・五畿内売場株の制定
1808文化527春 金比羅参詣。紀行「袖の家づと」二巻成
和歌・狂歌をよむ
1809文化628二月二十四日 祖父の治平衛が没する。84才 (慈宏院法海湛然居士)
秋 狂歌五十首を花の暮雪(八王子出店の番頭)に送る
1810文化729春 狂歌五十首を六樹園に送り、入門。
一月 六樹園『春興帖』を亀占正と共編で刊行。八王子雲多楼として一首入集。(参考
1811文化830『狂歌画像作者部類 下巻』(六樹園先生撰)に「雲多楼鼻垂」として肖像画・狂歌が掲載される。
十一月一日 六樹園が「雅言集覧」の執筆について遠藤春足に書簡を送る。(参考
弟 昂美、再び江戸に出て、谷文晁に学ぶこと三年。
※勢尾売場株の制定
※この年藩内藍師1560名、江戸売藍玉問屋29名。
1812文化931『万代狂歌集』(文化九年刊、宿屋飯盛編)、「雲多楼鼻垂」二十四首入集。
本居大平に入門。
春 春足 商用で江戸に下り、六樹園飯盛を訪問する。
六月 四国猿人 判を乞う。
1813文化1032秋 針葉右大尽の企てにて春日大社に三十六人の像を絵馬として掲げ「六々連」と称す。
「紀の抜足」と改号。
『狂歌道中記』(昇亭北寿画 六樹園飯盛編)に阿州雲多楼鼻垂として一首入集。
1814文化1133『飲食狂歌合』(六樹園編 北渓画)刊行。五首入集。
1815文化1234六樹園大人・六六園大人両評兼題「松竹・鶴亀」六々惣連 十一月開巻
1816文化1335六樹園・塵外楼・六々園 三評 『花の歌』 成る。六樹園序あり。
『稲葉文集』 四冊成る。本居大平との贈答文その他を収む。
1817文政1436『吉原十二時』 刊。七十二首入集。
文化年間刊『武者尽狂歌合』 阿州雲多楼鼻垂一首入集。勝負は持なり
1818文政137 
1819文政238備中の藤井高尚にはじめて消息を送る。
文政己卯『春興集』に狂歌入集。阿波石井六々園抜足 像あり。
1820文政339『狂歌著聞集』(芝園盛砂)刊。文章二編入る。
1821文政440一月十八日 昂美(萃雅堂)没する 32才
1822文政541江戸に下り、菊池五山に萃雅堂墓碑銘を乞う
六月 江戸の東西南北(文政10没)来訪。
1823文政642秋 名古屋 三蔵桜多鶴丸 来訪
蜀山人 没する
1824文政743江戸に下る、『東日記』成る(稿本現存)
賀茂季鷹 尾崎雅嘉 田鶴丸に会う。
1825文政844『今様職人尽狂歌合』(六樹園)一首入集。
『白痴物語』二冊刊
1826文政945九月 六樹園『雅言集覧』(い~か)九冊刊、序文を書く。本居大平、賀茂季鷹の序を周旋す。
1827文政1046江戸の戯作者と称する穂積種彦来訪。
1828文政1147『猿著聞集』(八島岳亭)刊、資料提供
春 江戸へ下り、狂歌堂真顔を訪ふ
七月十四日 妾の小富没する、子なし 『かなしみ草』成る
1829文政1248三月 江戸大火 八丁堀の支店罹災
『猿蟹』の集歌、『白痴物語』 版木焼失。
文政年間刊『狂歌歓娯集』(六樹園その他)に六々園抜足三首入集。
文政年間刊『金石狂歌集』(六樹園)三首入集(六々園抜足)
(金石集、歓娯集ともに刊行年記載なし)
1830天保149『庚寅日記』成る。
閏三月二十四日 六樹園石川雅望没する。
若山(和歌山)、高野、大阪旅行。
六月『さるかに物語』刊行
1831天保250 
1832天保351二月『伊勢物語』案成る。
『春屋随筆』この頃成るか。
『難後言』刊。(後言の石川雅望関係記事の正誤)
『狂歌阿淡百人一首』(六樹園)に、男春通、女駒子とともに父子三人の像出づ。
1833天保452 
1834天保553一月二十六日 死去 53才
法名 観光院弘誓如海居士

「遠藤家系図」資料(遠藤林太郎作・昭和35年・稿本)より

・妻は宗家遠藤十郎右衛門の娘。没年 文久元年1861年5月8日。春足と結婚した年は不詳。
・娘は「駒」(明治元年1868年死去)
・娘の配偶者は「豊八」(春雄・春道・六代宇治右衛門・貞光村折目家より養子・安政5年1858年6月15日死去 53歳)

※駒・豊八ともに狂歌師で『狂歌阿淡百人一首』に親子が肖像画入りで掲載されています。
徳島県立文書館 第52回企画展図録『描かれた阿波の人物』2015年 PDF内 P.4 に所収

遠藤春足 同時代グラフ

遠藤春足と同時代に活躍した人々のグラフです。

遠藤春足 掲出作品(随時追加)

『狂歌阿淡百人一首』 出典:国書データベース

開発環境:国書DB

『狂歌水滸傳』 出典: 国書データベース

国書データベース

『狂歌作者部類』(文化八年 六樹園編) 出典: 国書データベース

国書データベース
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