冬籠り春足文書繙けば/笑ひ満載狂歌書の山
仕掛け(修辞・技巧・工夫)
1 枕詞 冬籠り→「春」にかかる。
2 掛詞 まんさい→満載と万載(万載狂歌集)をかける。
きょうかしょ→狂歌書と教科書をかける。
このようにたいていの狂歌には「仕掛け」が施されている。
それを読み解くのが楽しみの一つ。
1、はじめに
(1)「狂歌文書館」HPを作った狙い
画像データをデジタル化することによって
①文書中の語句が検索にかかるようになる。
②どこでも、だれでも、アクセス出来るようになる(誰とでも共有出来る)
③精細画像と解読・コメント等が一体になっているので、解読出来なかった箇所、誤読等の修正に誰でも参加出来るようになり、より正確なものに近づけることが出来る。
(2)「狂歌文書館」アクセスの仕方
①(Yahoo,Googleなどの)検索ページを開く。
②「狂歌文書館」と入力し、検索する。
③HP名「狂歌文書館」(阿波の狂歌師遠藤春足コレクション)を探し、クリック。
④「狂歌文書館」のHPが出ます。任意の項目から開けて下さい。
(3)解読ご協力のお願い
掲載の解読・語注・気づきは不十分なまま掲載してあります。また全く手に負えない解読不能の資料も画像だけは掲載してあります。解読に興味がある方は是非ご協力をお願いします。
(4)ご参加の方法
お暇なときにいつでも、どこでも結構ですから、上記方法でHPを開いて頂き、お気づきの点があれば、各ページ最後にコメント欄を設けてありますのでそこにご記入頂き、氏名、ご連絡先等をご記入の上、送信ボタンをクリックして下さい。コメントは遠藤雅義に送信されます。内容を検討の上御返事を差し上げる予定です。
2、「遠藤家文書」の概要
遠藤家五代目の当主、遠藤宇治右衛門(狂名、雲多楼・抜足・春足・六々園など)、その弟、遠藤昴美(たかよし 雅号 萃雅)が収集したと思われる江戸時代後期の主に文芸に関する資料群。
資料形態 書冊(版本・狂歌集・自筆稿本等)、軸物(表装されたもの)、書き物(表装されていないもの)、書簡、摺り物(ちらし等)、短冊、錦絵、扇面・団扇、書籍、屏風など多彩。
資料数 書冊も、1点、、短冊も1点と数えるならば総数2000点を超えると思われる。(今後整理が進むにつれて増えると思われる。)
3、春足はどういう時代に生きた人か?


【気づき】
①狂歌全盛時代の天明期・文化活動上窮屈な時代だった寛政の改革時期を外している。
②春足が比較的自由に文化活動を出来たのは祖父の死(文化6春足28歳)以降。
③この文書に残されている有名人のほとんどは同時代の人。
例外 本居宣長 一世代前
上田秋成 同
蔦屋重三郎 同
4、師・石川雅望(宿屋飯盛)と遠藤春足
(1)春足、雅望入門に至るまで
資料1 六々園□□ふ号

【概略】(前略)
⑤最初の頃、狂歌には全く関心が無かったが、文化五年春、讃岐へ旅をした折、旅日記をつけ、その中に俳諧歌ともいうべきものを二、三首詠んでみたところ、それが面白く感じられたので、それ以降折に触れ(狂歌を)読むようになった。
⑥狂歌集の類いは見たこともなかったがたまたま林々葉(?)という人から貞柳の狂歌置き土産・狂歌今はむかしという本を得て読んだ。それは言葉の秀句(言葉遊びに近いか?)に頼っているだけように思えて滑稽味がなく面白くなかった。
⑦このころ弟の萃雅が江戸から持って帰った、千種庵霜解が撰した「狂歌幕の内」を読むと気に入った歌が多く、以後、この風の狂歌を読むことが多くなった。
⑧江戸の店で家業に携わっている武兵衛というものが金鶏入道(編輯の)「狂歌闇雲愚抄」という小冊をみせてくれ、いよいよ江戸の狂歌がすぐれていると思うようになった。
⑨その中でも六樹園の狂歌が抜きん出て面白く、興あることに思えた。
⑩それまで六樹園のことは安永、天明の頃の過去の人と思い込んでいたが、現在も活躍中と聞き、師とする人はこの人しか居ないと思うようになった。
【本文】

かくて文化六年の
□おのれかよめる歌とも五十首□摘出つゝ蜑のた
く縄くるしからずは六樹園翁にも見せ給へとて
か□暮雪のもとにおくりつかハしけるにいかなれハ翁
にハ見せず□□暮雪のこゝろもてとあらんかくあらん
なとみ□□□かへ□おこせけるにおのれのおもへるとハ
いたうかハりてたゝ意にかなはぬことのミおほかりけれ
ばまたのとし春ふたゝひ書清めて上書に猿か人
まねとかひしるしていさゝかしりかきをも加へてかの翁
のもとにつかハしけるに翁もうた文ともにいミしう
ほめ給ひておくに
木のほりの高きこと葉にさるもゝの
四国にありとわれさへそしる
とそかきつけておこされける是なん此翁の門にいり
たるはしめにハありけるさて此うたのかへしハかくなん

いひつかハしける
さるものと君の仰せにいとゝわか
つらも真赤になりてはつかし
是よりハひたふるにかりのいきかいたえすして時々よ
めるうたをも見せなとしてかの狂歌萬代集作者
部類なといへる集にもあまた加ハることゝハなりたる
□りさて文化九年の春家わさ□□ことにつきて江戸
にくたりける時はしめて六樹園翁にたいめして
したしくもの語りをもうちきゝはた著し給へる書
なとも□□□□見ていよいよ此翁の学ひさえのすく
れたる□□□もしりつゝますます此翁を信してよ
□□ひ聞ことになんありける(以下略)
(2)師(雅望)との対面・交流(2-34-2)
(3)『雅言集覧』本居大平序文の仲介(2-2-2他)
(4)宗匠号授与事件(文政十一年)(3-2-2他)
(5)雲多楼宛て五老書簡 五色素麺の礼、南畝へもお裾分け(2-3-2)
(6)文政十二年江戸大火(『六々園漫禄』「おそろしきもの」(3-16-1)
(7)資料2 石河((ママ))雅望ノ伝(六々園漫録二 (p2102281)

石河雅望ノ伝
六樹園石河氏にして名ハ雅望字ハ子相五
老と号しまた蛾術齋と号す通称は中村屋
五郎兵衛といふ江戸伯楽街に住しヤト人宿す
(ことをも?)て家の業(ナリ)とせり。若冠より専ラ和漢
の書を読て博識を以聞えたり資性(ウマレツキ)諧謔を
好ミて大田南畝唐衣橘洲朱楽菅江などゝと
もに始て東曲(アツマフリ)の狂哥を唱へ宿屋飯盛と(号?)
して其名海内に轟けり古今狂歌囊東曲(アヅマフリ)

狂歌文庫?其初手に撰する所なりみづか
ら詠る秀歌最多しといへとも人口に膾
炙するものハ
歌よみは下手こそよけれ天地の
うこき出してたまるものかハ
といへるなりいかなることにか中ころ不慮の禍
ひにあひてもとの住所をさり四ッ谷新宿にう
つりて此所にをること数年其間みづ
から狂哥の社を迯れていよゝ和漢の書(フミ)を
渉猟(アナグリヨミ)念(オモヒ)を著述に傾けて雅言集覧の企あ
りまたふかく源氏物語を好ミて精読する
こと数多度(アマタタビ)時の人五郎の源癖とていみし
きことにいひあへりつひに原注余滴廿巻を
著して大に古人の不得解ことを発明するこ
と(中略)

同(文化)十二
年家を霊岸島湊街にうつしてますます
此道を唱へけるにつひにその派流三十余国に
みち其社にいるもの三千余人に及へり実に
古今未曾有の盛事といふへし狂歌万代
集狂歌作者部類職人尽狂歌合飲食狂
哥合吉原十二時狂歌集金石狂哥集等皆
其撰をする所なりまた倭文章(ミクニフミ)かくことに長し
て都のてふり里梅枝物語蠧巣栖物語等の作(シミノスミカ)
あり或ハ源氏枕双子等の筆意にならひ或ハ
今昔物語宇治拾遺等のおもかけをうつされ
たるにいつれもよく古人に彷彿たり近世
賀茂真淵大人本居鈴屋ノ翁なといへる人々の
出てより以来(コノカタ)皇国(ミクニ)の学を以世に鳴文章か(フミ)
くことをもてみづからほこりたる人々?是彼
ありといへとも此翁とたけくらべせんには跡を
くらまして迯さるはあらさるべし(中略)

また狂哥を評するの暇に何くれ戯文
をかゝれけるに諧謔百般大に人の顎を
解しむ其集を吾嬬奈満理といふ上梓し
かくの如くなりといへども聊も傲慢の気あ
ることなく実に世とよく押うつるの人にて

ものしらぬ狂哥者流といへとも終日話し
てさらにうむことなしされハみつから儒者を
以をらす又和学を以をらすただ狂歌を
任として其党にのみ交り遊ハれたりされ
はあまりに狂哥の名の世に高きによりて
かへりて学才の聞えを蔽(オホ)ふにいたるももし
此翁をしてかく狂哥の徒に交ることなから
しめば厳然たる皇朝学の博士にして其
右に出る人あらさるべし然ともつひに其
大名雲の上まてもきこしめされて文政十一
年五月
二條左大臣殿より御歌にそへて烏帽子水干
を賜ハり誹諧歌の宗匠たるへきよし許
をかうふりぬ
其御歌曰
咲そめて色めつらしき梅かえは
なほたをりても見はやとそ思ふ
御かへし
たをりてもかひあるへくもおもほえす
老木の梅のいろかうすきハ

かくて同十二年三月神田より火出て霊岸
島鉄炮洲にいたるまで残りなく焼わたり
ける時翁の舘もこの災にかゝりて雅言集
覧源注余滴をはじめ年来著ハされたる
書の草稿ともみながら焼うせにけれは
翁も大に望をうしなひ深く歎き思は
れつゝ是より後ハただふしがちにて枕をの
ミ友にてくらされけるかつひに天保元年閏
三月廿四日齢七十八にてみまかり給ひぬ則
某の寺に葬りて俗名六樹院臺譽五老
居士と申しき
天保二年十二月七日
六々園春足誌



蛤に はしを/しつかと はさまれて
鴫たち/かぬる 秋の夕/くれ 飯盛


きぬぎぬは 瀬田の長橋 長びきて
四つのたもとぞ はなれかねける 唐麿

夏痩の 小川の水を ふとらせて
むなきもふらす ゆふ立の雨 唐麿
●狂歌作者部類

鼻垂遠藤氏宇治右衛門阿州石井の人商家
雲多楼鼻垂
はらわたを たつてふ猿の さけふころ
ちしほに山の そまるもみちは
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