以下は、遠藤家文書中に見られる「猿蟹物語(ものがたり)」関連資料6点です。資料を整理したうえで、最後に考察を加えています。
1.「狂歌猿蟹物語」 狂歌募集広告(チラシ)
時期:文政十一年(1828)十月十日以前
狂歌猿蟹物語 十月十日かたく/上切十一月十日/延引なく開巻
六々園撰 入花 三首一組百孔/かへ哥一首廿孔/十首詠二百孔
兼題
猿蟹 同復讐童物語のこゝろ 柿 栗 蜂 牛糞 杵 臼 地火炉 秦大(太)瓶 孝 復讐の外ハ物かたりにかゝハらでよみ玉ふべし栗柿の外ハ四季よミ合随意
おのれ此ころ或人のもとめによりて世の童の物かたり
くさにすめる猿蟹合せんのことをかきつゝりたるを東の
まらうど岳亭ぬしに見せけれハこハめつらしとてやかて筆
とりて其さまを画にうつしてたびつ今とし春江戸に
ものしけるついでに是を師の翁に見せまゐらせければ
師も又おかしとの給ひてかの絵の上に自ら御うたをしも
かきて玉ひたりされば尚此うへに名たゝる諸きんたちの
御うたをも乞てこれかおくにそへましかハよきほどの
冊子めくものともなりなんとてかくハおもひ企つるになん
そのをこわさをもとかめ給ハて御うたふさによミて
玉ハらハおのかほい此上のよろこひはへらしかし
六々園春足
○現代語訳 小生、このごろ或人に頼まれて、世間の人が子ども向けの物語にしているという猿蟹合戦を(和文に)書いていたのを、江戸からの客人、岳亭(定岡)ぬしに見せたところ、(岳亭は)「これはめずらしい」と言い、すぐに筆をとり、物語の場面を絵に描き、(私に)呉れた。私は今年江戸に下向した折、この絵を師の君(石川雅望)にお見せしたところ、先生は「おもしろい」とおっしゃってその絵の上にご自分の狂歌をお詠みになって書いて下さった。そこで、更に諸国の名だたる狂歌人に狂歌を乞い、この絵の後に添えたならば立派な冊子めくものになるに違いないと思って、この企画を企てた次第である。私のこの馬鹿げた企画をおとがめにならないで、沢山の狂歌をお送り下さったならば私の本意、これにまさるものはございません。
右八点上出板十三点上のこらず/画上に出し彩色摺表帋付巻本ニ仕立呈上仕候
玉詠集所 江戸れいがんしまミなと町 中村屋梅太郎/日本八丁ほり三丁目 阿波屋吉右衛門/京三条通富小路上ル 吉田屋新兵衞/大阪南堀江三丁目 大谷屋半兵衛/大阪中はしかはら町 扇屋利助/阿州石井 遠藤宇治右衛門/阿州とくしま佐古町三丁目 綿屋栄右衛門
補助 白露園浮丸/林泉園為成/琅玕園直/飲中園止/深雪園卯時
校合 六柯園猿人/六根園梅男
会主 (鈴印)総連
2.春足宛て五老書簡(手鑑3-2-2)
時期:文政11年(1828)11月2日付け
一猿蟹の狂歌御あつめ
おもしろく所々へ配り遣し候
3.春足宛て五老書簡(手鑑3-16-1)
時期:文政12年1829 5月21日付け
猿蟹ハ江戸にて梅明方ニて集候所
火災ニてみな焼失とのこと
きのとく奉存候去年中序文
これハ届不申候やせんさく可被下候
さるかにの序文あとより上可申候
4.竜屋書簡
時期:文政十二年(1829年)7月20日付け
六々園先生
再白猿蟹物語江戸火災に付
集り薄きよし御案内ニハ御座候半なれと
当時春友亭方へ御頼無ニて候へハ(?)
歌之集り少く且塵外之評判ハ
諸国共中値ニて御座候岳亭ニ御聞
正し可被成候頼ニならぬ人ニ御座候 以上
○現代語訳 六々園先生 追伸 (春足さんからの手紙によりますと)猿蟹物語(狂歌合)は江戸の大火によって集まり具合が悪いようですが、今のところ(春足さんから)春友亭方へ(出板の)御依頼がないようですので歌の集まりが少ない(のだと思われます)。また、塵外楼(清澄)は諸国の間では評判が中くらい、(あまりよろしくなく)これは、岳亭定岡にお聞き下さい、あまり頼りにならない人でございます。以上
○竜屋という人は「吾嬬日記」によると名古屋の人で狂歌師。(「あざれ哥好める人にハ龍屋ノ弘器」(P2020019)とある。非常に教養のある人と思われる。春足はこの人からいろいろの書物を購入していたようだ。
5.安六道人書 掛け軸、書き物
時期:不明
○両資料とも「猿蟹物語」序と同じもの。
6.「六々園漫録」の「おそろしきもの」
時期:文政十二年(1829)
またおなしとき塵外楼ぬしよりもせうそこありてはやうこそ
の冬おのれか企つる猿蟹物語狂哥合いとめづらかなりと
て遠近よりう?(た?)どもいとふさにつどひよりておほかた二百人
ばかりにもおよびぬるを春友亭梅明のきておのれかもと
にも三四十人斗りもあつまりてあなれハいで一ツになして
??おくら?とてかしこにもてかへりぬるをあやにくにえさり
がたきことのいできて????といひをりけるほどにつひに此
火のワザハひにハあひぬといひおこせぬこれぞおのれか四たひ
のおどろきにハありける
考察
以上、大体時系列にそって並べてみると次のようなことがわかる。
1について
○「狂歌猿蟹物語」は春足によって文政11年の10月頃までには企画立案され、全国の狂歌仲間に狂歌募集チラシが配られた。
春足がこの企画を立案したいきさつ、及び意図は、上記資料1、春足の口上に述べられている通りであるが、ここに要点を再録すれば次の通りである。
①或人に頼まれて、世間の人が子ども向けの物語と考えている「猿蟹合戦」を(和文に)書いた。②これを折しも春足宅を訪れていた江戸の客人、岳亭(定岡)(手鑑3-7-2)に見せたところ、(岳亭は)「これはめずらしい」と言い、すぐさま物語の場面を絵に描き、(私に)呉れた。③私は今年(文政十一年春)江戸に下向した折、この絵を師の君(石川雅望)にお見せしたところ、先生は「おもしろい」とおっしゃってその絵の上にご自分の狂歌をお詠みになり、書いて下さった。④そこで私は、更に諸国の名だたる狂歌仲間に狂歌を乞い、この絵の後に添えたならば冊子めくものが出来るに違いないと考え、この企画を企てた。
○兼題として猿 蟹 柿 栗 蜂 牛糞 杵 臼 地火炉 秦大(太)瓶 孝 の11題が提示されている(a)。これを現存する「猿蟹ものがたり」(b)と照合すると、黍団子はbのみ、杵、臼はaのみ、それ以外は重複している。桃太郎に出てくる黍団子が混じったのは恐らく故意ではないだろうか。
○玉詠集所として、江戸霊岸島港町 中村屋梅太郎(雅望の長男、塵外楼)/日本(橋)八丁堀三丁目 阿波屋吉右衛門(春足の江戸支店)/京三条通富小路上ル 吉田屋新兵衞(不明)/大阪中はしかはら町 扇屋利助(「猿蟹物語」出板元)/阿州石井 遠藤宇治右衛門/阿州とくしま佐古町三丁目 綿屋栄右衛門(徳島の狂歌仲間か?)の名が上がっているが4,6で集所とされた春友亭梅明の名は見当たらない。逆に大阪の扇屋利助の名はすでに上がっている。
○補助の白露園浮丸/林泉園為成/琅玕園直/飲中園止/深雪園卯時及び校合の六柯園猿人/六根園梅男は六々社中の人である。
○会主としていつもの五側マークでなく(鈴印)総連となっているのは六柯園猿人と六根園梅男が新たに立ち上げた社中と思われる。この二人が幹事役となったのだろう。
2について
雅望は塵外楼のところ、(あるいは春友亭梅明のところ)に集まったものを見ておもしろい、ところどころへ配った、と言っているのだろう。
3について
不思議なことは、息子、塵外楼のところに集まっているはずの応募狂歌が焼けたとはどこにも言っていない。「猿蟹ハ江戸にて梅明方ニて集め候所火災ニてみな焼失とのこときのとく奉存候」とだけ述べている。まるで他人事のようである。
この謎は6の「おそろしきもの」によって解ける。私はこの書簡を最初読んだとき、春足のところに二百ばかり集まっていたのを梅明が来て持って帰ってしまったと解釈し、梅明はわざわざ江戸から阿波まで来たのかと考えたがこれはやはり間違いで、江戸の塵外楼のところに集まっていた二百あまりの応募狂歌を、江戸の梅明が持って帰ってしまったのである。どちらにせよ、焼けてしまったのは同じであるが雅望が人ごとのようにいうのはそのせいである。ではこの梅明は何者だろうか。一応「春友亭」を名乗っているのでおそらく狂歌仲間だろうと思われるが、今のところ手がかりがつかめない。おそらく塵外楼の仲間と思われる。
4について
この書簡は今まで見逃していたのであるが読んで見ると重要な情報を含んでいる。差出人の竜屋という人は「吾嬬日記」の中で春足が「狂歌人としては名古屋では竜屋ノ弘器」と真っ先に名を挙げている人である。おそらく春足から江戸の大火で募集中の猿蟹物語の応募歌が焼失したという知らせがあったのだろう。この書簡はそれを受けてのものと思われる。この書簡から次のことがわかる。①猿蟹物語の狂歌の集まり具合が悪い。②春足は「猿蟹」の出板を春友亭へ依頼していた。③しかし罹災後はまだ依頼していない。④集所の塵外楼も頼りにならない人だ。
この書簡から、現在残っている「猿蟹ものがたり」(P2020205)は、江戸大火後、再募集、あるいは罹災後届いたもの、あるいは塵外楼以外の集所に集まっていたものをまとめて出板したものではないか。歌の数が少ない(全部で34首、春足合わせて37首)のはそのせいである。また塵外楼、春友亭はまだ立ち直っていないから、大阪の集所であった扇屋利助に変更して出板した。
以上
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