六々漫談

春足と雅望の運命を大きく左右した文政十二年の江戸大火

凡例

①引用の文章においては適宜、句読点、濁点等をほどこし、カタカナはひらがなに改める等読みやすくした。
②虫食い等で読めない箇所は?で示した。
③正確な原文は本HP「六々園漫録二巻 おそろしきもの」をご参照ください。

火事と喧嘩は江戸の華

抜六 久しぶりの六々漫談です。今日は先日公開した「六々園漫録 第二巻」の中に、漫談には少し重たい深刻な記述が出てきたのですが、それについてお話しましょう。

遠藤 よろしくお願いします。

抜六 遠藤さんは「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉を聞いたことがありますか。

遠藤 はい、あります。確か、江戸っ子は気が短くてすぐ喧嘩になりやすかったのと、江戸は人口密集地ということもあって火事が起きやすかったんですよね。しかし、「江戸の華」ということは、江戸の人々は喧嘩や火事を好ましいものと見ていたんでしょうか?

抜六 華とは華やいだものという意味なので、そう思うのも自然なことですが、この場合の「火事が江戸の華」だというのは火消しが活躍する様を表現しているんですね。歌舞伎に「め組の喧嘩」というのがあります。これは文化二年、江戸の町火消し「め組」と江戸角力の力士との間で実際に起こった事件をモデルにしているのですが、この歌舞伎を見れば、火消しは危険であるだけにかっこいい職業と見られていたことがよくわかりますよ。

遠藤 なるほど。確かに、震災などで被災者のために活動する自衛隊や消防隊の方々はヒーローのように見えたりしますもんね。しかし、実際のところ江戸ではどれくらい火事があったんですか?

抜六 これはwikiの記事によりますが、江戸267年間を通じて、大火とよばれるものだけで49回、それ以外にも1798回の火災があったそうです。大火では明暦の大火、明和の大火、文化の大火が江戸三大大火と呼ばれています。江戸大火の49回という数字は、同じ時期の京都9回、大阪6回と比べても突出した多さですね。

おそろしきもの

抜六 さて、今日の話題はその火災に関するものです。『六々園漫録』を読んでいたら「おそろしきもの」という章段に非常に興味のある、重要な記述を見つけました。

遠藤 遠藤春足関係年譜(鈴木馨氏作成)の文政十二年の項目に「三月、江戸大火、八丁堀の支店罹災」とあります。これと関係ありますか?

抜六 はい。その根拠となったと思われる、かなり詳細な記述が見つかりました。長い文章ですが詳しく見ていきましょう。

『おそろしきもの、よる鳴雷、家に盗人の入りたる、近き火』と清原のおもとはかかれけれど、雷はかならす落べきものにもあらず。ぬす人は家をしもとるものかは。ただおそれてもおそろしく、つつしミてもつつしむべきは加具土神の御怒にぞありける。

抜六 冒頭の書き出し、「おそろしきもの」というのは清少納言の『枕草子』の章段を引用したものでしょう。枕草子には「すさまじきもの」「心ときめきするもの」のように同じ種類の「もの」について述べた章段が複数あるのですが、そのうちの1つが「おそろしきもの」です。ここに日本古典文学大系の『枕草子』を持ってきています。該当箇所を探してくれますか。

遠藤 ありました。二百六十四段に「せめておそろしき物、よるなる神、ちかきとなりにぬす人のいりたる。わがすむ所にきたるは、ものもおぼえねば、なにともしらず。近き火またおそろし。」(現代語訳:何とも恐ろしいもの、夜に鳴る雷、近い隣に盗人が入った時。自分が住んでいる所に入ってきたときは、パニックになって何も覚えていないものだから、何とも思わないのだ。近い所の火事、これもまた恐ろしい。)とあります。

抜六 春足さんはこの章段を引用する形で書き始めているわけですね。さきほどの文章を現代語訳すると、「『おそろしきものには、よる鳴る雷、自分の家に泥棒が入ったとき、近くの火事』と清原のおもと(=清少納言)が書いているけれども、雷と泥棒は必ずしも恐ろしいものではない。最も恐ろしいのは近くで起こった火事である」と述べて、火事ほど恐ろしいものはないという本題に入っていくわけですね。

5回のびっくり

文政十二年三月廿一日巳ばかり、江戸神田佐久間街といへる所より火いでて、芝新橋あたりまて、縦は五十丁あまり、横は三十丁ばかりただやけにやけて、さしもいらかをならべ、軒をつらねて造りまうけたる千万の家どももわづかに一ト日一ト夜のほどにみながら烟??しもなりはてぬるぞ、をしともをしく、かなしともかなしきわざなりける。

遠藤 文政十二年というと1829年。春足は四十八歳、石川雅望は七十七歳に当たりますね。

抜六 火元は神田の佐久間町、今の秋葉原駅の東あたりですね。ここは度々火元になったので「佐久間町」ではなく「あくま町」だなんて言われたって何かの本に書いてありました。縦は五十丁、横は三十丁とありますが、一丁は109mなので、南北に約5.5km、東西に3.3kmほど焼けたということですね。

さて此火の??おのれハきくごとに、うち驚きぬることすべて五たびなり。さるは四月朔日の朝はじめて、大坂よりかくとつげきたりけるに、南北八丁堀・霊岸島ものこりなうやけぬる??なれば、さはかまへおきつる家、師の??舘などものかれざめりとまづうち驚きぬ。

抜六 この火事について、自分は5回びっくりした。とあります。その1回目。4月1日朝、大坂から知らせがあって南北八丁堀、霊岸島などもみな焼けたということなので、八丁堀にあった春足の江戸支店、霊岸島にあった六樹園先生の家も焼けたに違いないと思ったということですね。ここで「大坂から知らせ」とありますが、この大坂について何か心当たりはありますか?

遠藤 うーん、遠藤家に大坂支店があったという話は聞いたことがありません。商売仲間の誰かかも知れませんね。

されど???わたりへは道のほと大方一里ばかりもあれば、万のものは??ぬりごめにをさめたるべければ、さのみにはあらざめりとおもひをりけるを、同三日、おのれが手人、茂平といへるよりせうそこして、つばらにことのよし、いひおこせたるに、いかなれば、かの塗籠(ヌリゴメ)のはしはしとやけて、家わざにすめる染草はさらなり、何くれの家の具どもみながらなくなりぬるよしなれば、ふたたびうち驚くこと大かたならず

抜六 しかし、火元から自分の支店へは4km近くもあり、大切なものは塗籠の中にしまってあるのでたいしたことはあるまいと思っていたら、4月3日、支店で使っている茂平という人から詳しい報告があり、どういうことか、塗籠も隅々まで焼け、蔵っておいた商売ものの染草(葉藍)はもちろんのこと、家財道具にいたるまで全部焼失したとのこと、これが2回目のびっくり。

塗籠

抜六 ここはこの章段の核心ですね。さてここで問題になるのは「塗籠」という言葉です。古文にはよく出てくる言葉ですが、念のため「日本国語大辞典」を引くと次のように出てきます。

塗籠(ぬりごめ) 周囲を厚く壁で塗りこめ、明かり取りをつけ、妻戸を設けてそこから出入りするようにした室。納戸の類。

抜六 家の中に土蔵のような構造の室を作ったものですね。

遠藤 その中に入れておいた商品となる染草(葉藍)、一切合切の家具類が全部焼けたというのですね。ところで、葉藍とはどういうものなのでしょうか?

抜六 これは立石先生から聞いたことですが、藍を収穫する、葉と軸を分ける、葉を集めてすりつぶす(藍こなし)、寝床で寝かせ発酵させる、それを乾燥し葉のまま、あるいは団子(藍玉)にし、俵に詰めて発送するという工程をとるそうです。とすれば江戸に送られた物ですから俵に詰められた状態のものですね。

遠藤 ここには分量については何の記述もありませんが、おそらく1年分の仕入れ量が蓄えられていたのでしょうね。

抜六 遠藤家にとっては相当の痛手だったと思います。

画像:国立国会図書館(『江戸の華 下巻』急火土蔵之戸前目塗之図)
火事が近づくと,家財,貴重品などを土蔵に入れ,この絵のように,扉や窓を閉めて目塗りをして難をのがれたもので,こうしておくと土蔵に火が入らず,中の家財は焼残ることから,江戸の町民の火事に対する生活の智恵を画いたものである。(『消防防災博物館』より)

師の君(石川雅望)からの連絡 

また同廿五日、師の君のもとよりせうそこあり。霊岸島は火のもとへはいと遠かりけれど、こちの風下(カゼシモ)にてありければ、たちまち火とびうつり?ちかきあたりよりはなかなかにはやうもえ出ければ、みなあはてまどひ、いのちをうしなへるもいと多かりしとぞ。されば塵外楼ぬしなどもよろづのことはうちおきて、ただ翁御夫婦をのみたすけまゐらせつついそぎたちのき給ひけるに、はやくも火もえきたりて、ほとほと髪の毛もやけぬべうなりければ、何くれの調度らは、やまとの書どもはさらなり年ころものし給へる雅言集覧、源注余滴の草稿をさへえとり出給はで、のこりなうやき給へり。?か此二つの書ともは、翁がまだいとわかうおはせしほどより凡四十年(ヨソトセ)あまり、よるとなくひるとなくひたすらものし給へる書(フミ)なるを、かう一時にしもなくなしけるは、あさましともくちをしともいはんすべなうぞおぼえたる。これぞおのれが三たひの驚きにはありける。

抜六 同廿五日ということは文政十二年四月二十五日ですね。石川雅望先生からお便りが届き、霊岸島は火元へは遠かったけれど、「こち」すなわち「東風」の風下だったので、飛び火して近所から出火し、大勢の人が命を落とした。長男の塵外楼さんが先生御夫婦を助け出し、命からがら逃げたが、髪の毛も焼けそうなほどであった。この時、家財道具はもちろんのこと、多くの蔵書、長年書きためてきた雅言集覧・源注余滴などの原稿類も全部やけてしまった。この二書は先生が若いときから四十年あまり、ひたすら書き続けてきたものであったのに一時にして灰になってしまったのは、驚きあきれたことともくやしいとも言いようがない。これが3回目のびっくり。

遠藤 うーん。なんとも痛ましいですね。他のものならともかく四十年余りにわたって書き続けてきた原稿類を焼失したとは…。しかし、この大火の後、雅望が亡くなってだいぶ経ってから雅言集覧の未出版分が出版されているようですが、これは大火の後に雅望がもう一度書き直しておいたということなのでしょうか?

抜六 ここには興味ひかれる因縁話があるんですよ。

奇跡中の奇跡

抜六 粕谷宏紀著「石川雅望研究」の306ページ、滝沢馬琴『著述堂雑記抄』という本からの引用として次のような話が紹介されています。長いので要点だけ紹介します。

 六樹園が「雅言集覧」の前集を書いていたころ、屋代弘賢がこの本に非常に興味をもち、六樹園宅を訪問して「後集が出るまで待ちきれないから、まだ出板していない分を書写させてもらえませんか。」と頼んだところ、六樹園は「私の著作にそのように興味をもってくださるのは有り難いが、その原稿は張り紙だらけで繁雑で、とても外部にお出しできる物ではない。」と断った。そうすると屋代は「では、私の弟子をここに遣わせて書き写させますからお許しいただけませんか。」と頼んだところ、翁は「それならば・・・」と承知したので屋代は連日書生を遣わして全部書写させた。後年(文政十二年)大火に遭い、雅言集覧は全部焼失してしまった。しかし屋代が書写したものが残っていたので翁はそれを元に、続きを書き継ぐことができた。

遠藤 いやあ、こういう奇跡もあるのですね。不幸中の幸いです。

著述は愛する人に写させておくこそよけれ

抜六 馬琴はこの話の続きに次のように書いています。

 不思議にも一本屋代翁の手に遺りて嗣刻に及ぶこと、六樹園が没後のよろこび知るべし、かかれば著述は愛する人に写させておくこそよけれ。心せまくをしみて、知己にも門人にも借さずして、その書の終に伝わらずなりにしもの世に多かり。もて誠となすべし。

遠藤 なるほど、出し惜しみをしないことが大事だ、ということですね。

塵外楼(清澄)からの連絡

またおなしとき塵外楼ぬしよりもせうそこありて、はやうこぞの冬、おのれが企つる猿蟹物語狂哥合、いとめづらかなりとて遠近(ヲチコチ)よりう?(た?)どもいとふさにつどひよりて、おほかた二百人ばかりにもおよびぬるを、春友亭梅明のきて、おのれかもとにも三四十人斗りもあつまりてあなればいで一つになして??おくら?とてかしこにもてかへりぬるを、あやにくに、えさりがたきことのいできて、????といひをりけるほどに、つひに此の火のわざはひにはあひぬといひおこせぬ。これぞおのれか四たひのおどろきにはありける。

抜六 同じ頃、六樹園の長男・塵外楼から手紙が来て、去年の冬(文政十一年冬)自分(春足)が企画した『猿蟹物語狂歌合』は珍しかったと見え、遠近から二百ばかりも集まっていたのだが、春友亭梅明が来て自分の所にも三、四十集まっているのでこれを持って帰って一つに合わせましょうといって持って帰っていたところ、この禍に遭って焼けてしまった。これが4度目のびっくり。

遠藤 我が家には春足が出版した『猿蟹ものがたり』という本が残っています。この『猿蟹物語狂歌合』とは別物でしょうか?

抜六 そこはいまのところちょっとわからないですね。『猿蟹ものがたり』は文政十三年六月に大坂 狂歌書林 千里亭 扇屋利助から出ていますね。ところが、春友亭梅明という人は原稿が江戸大火で焼けたというのだから江戸の人のはず。同じ本とすれば矛盾することになります。これは今後の課題としておいておきましょう。

春足の白痴物語の版木も焼失

其のち、おなじ廿七日、博労街の西村与八といへるよりもせうそこあり。此博労街は火のもとへはいとちかきわたりなれど、風のすぢにあらざれば、霊岸島・八丁堀などよりは猶のちにやけたりとぞ。さればはじめはうたがひなくのがるべうおもひて心のうちゆうよしてありけるを、俄に火とびきたりてもえ出ければ、いづれもくはくはといひていみじうあわてまどひけるとかや。さて書どもいれたるに塗篭(ヌリコメ)はことなうのこりたれど、年ごろのゑり板どもをいれたる塗籠やけうせて、そこばくのゑり板をはしめおのれが白痴物語の板をさへやきぬとか。此物語、こぞの冬、はじめていできておのれがもとへもまづ試にとて??すりておこせたれど、そこゑり人どもの誤??ふしふしも多ければ、ことし春、おのれかく?へ、ただしなどしてやりて、いまだ一部も世には出ざるほどなるに、はやくも灰燼となりぬること、くちをしなどいはんもなかなかなり。これぞおのれか五たびいみじき驚きにはありける。

抜六 同じ4月27日、博労街の西村与八、これは西与と略称される本屋の名前ですが、西与から手紙が来て、博労街は火元には近かったが風の筋ではなかったので、心配ないだろうと油断していたところ、俄に飛び火してあわてふためいた。書ども、これは西与から出版された本だろうと思います、それを入れてあった塗籠は無事だったけれども版木を入れてあった塗籠がやけてしまい、春足さんの「白痴物語」の版木も焼けてしまった。この物語は去年の冬、校正刷りが送られてきて間違いもあったので校正して送り返し、まだ世には一部も出ていなかったもので、言いようもなく残念である。これが5回目のびっくり。この章段はまだ続くのですが長くなるのでここらでやめましょう。

遠藤 出版を進めていた「白痴物語」が版木ごと焼けてしまった悔しさがよく伝わってきます。「火事と喧嘩は江戸の華」なんて言葉からこの漫談を始めましたが、春足にとってもこの火事は華どころか非常に残酷な火事だったようですね。

五老からの書簡(手鑑3-16-1)

抜六 最後にちょっと手鑑3-16-1にある「春足宛て五老(雅望)書簡」を読んでみましょう。この書簡にも江戸の大火に関することが書かれています。

類焼お訪い下され金百疋御授け下され御掛心、謝し奉り候。

遠藤 これは春足が火事見舞いとして金百疋を送ったことに対するお礼ですね。

抜六 そうですね。

猿蟹は江戸にて梅明方にて集候所火災にてみな焼失とのこときのとくに存じ奉り候。

遠藤 なるほど、さっき出てきた春友亭梅明という人のところは「猿蟹」の狂歌の集所だったんですね。

抜六 それが全部焼けてしまってお気の毒というわけです。

去年中序文これは届き申さずや。せんさく下さるべく候

遠藤 この序文というのは「猿蟹」の序文でしょうね。それを去年中という事は大火の前に送ってあるから確認願いたいということですか。

抜六 恐らく控えか何かでしょうね。

小子も集覧焼失、草稿もこれ無く遺憾に存じ奉り候

遠藤 ここでも雅言集覧の原稿焼失について触れていますね。

さるかにの序文あとより上申すべく候

遠藤 ん?猿蟹の序文は去年中に送ったのではなかったですか。

抜六 念のためもう一度送ったのでしょうか。

文事は天より奪ひ取る事とあきらめ候

抜六 「文事」とは自分が携わってきた狂歌の道をさしているんでしょうね。火災に遭ったのは天がそれを奪ったのだと諦めています。

遠藤 ところで、この書簡は、春足が六々園漫録で「同廿五日、師の君のもとよりせうそこあり」と記述している書簡なんでしょうか?

抜六 違うと思います。そちらは同廿五日(4月25日)という日附ですが、手鑑3-16-1の書簡は日附が五月廿一日(5月21日)になっています。内容も少し違いますし、この書簡には少し時間が経ったことで生まれたであろう余裕も感じられます。恐らく罹災後の2信目でしょうね。

遠藤 ということは、1信目がどこかにあるはずですね。

抜六 はい。おそらくそうなので、今後注意してみておきましょう。あと、この書簡の最後のところも確認しておきましょう。

團十郎大坂へ罷り上りご覧なさるべく候

抜六 これは木村先生もご指摘の通り、木挽町の芝居小屋が焼失したため、七代目團十郎が大坂興業に出かけることを伝えるものですね。こんなことを知らせるところにも少し余裕が感じられます。

遠藤 なるほど。そうは言っても、雅望にとっては、人生の大半を注ぎ込んだ原稿が焼失しているわけですから、気落ちしていても不思議ではないですね。

抜六 そうですね。事実、この火災のあと雅望はすっかり元気をなくして寝込みがちになったそうで、約1年1ヶ月後の天保元年(1830)閏3月24日に死去しています。

遠藤 雅言集覧の未出版分が出版されるのは雅望死後だいぶ経ってからなので、雅望は失意のまま亡くなったのかもしれないですね。しかし、文政十二年の江戸大火という遠い出来事が我が家の歴史にこれほど関わりがあったとは思いも寄りませんでした。古文書を読む魅力が少しわかった気がします。今日はありがとうございました。

参考:文政十二年の江戸大火の絵巻物

江戸失火消防ノ景 - 梅沢晴峩 - Google Arts & Culture
江戸の大火と火消しの奮闘を描く、13メートルにも及ぶ長大な絵巻。詞書はない。同図様の火事絵巻は、藩主家にいくつも伝わっているが、本作は様々な大名火消しが比較的正確にあらわされており、資料性が高いだけでなく、生き生きと活写した群像表現や、動き...

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