書き物

佐藤恭 学堂雑記と題する漢文

以下の翻刻・訓読・口語訳は徳田武氏のご教示による。

撮影:四国大学 / 分類:20230909-J62

 學堂壁記
古之學者、博學無方、約之以禮。自
天子公卿、以至於士大夫、無不有學
焉。自孔子以来、茲道大興。夫以堯
舜之道、文武之政、禮樂制度、
敷在方策。使人學而得之。其學
之也、當舎其末、學其本、先其大、
後其細、常志仁而不可忘安民、
勿溺流而廢源、勿棄法言、而
聽無稽之言。苟如此、雖不中不
遠矣。古之君子、所以過乎人
者、以其善學也。今之君子、所
以不如乎人者、以其不善學也。
善學者如古、不善學者如今。
豈不然耶。雖然世之相望、古
猶今、今猶古焉。嗚呼、其可
不學哉。
  文化庚午春二月
         佐藤恭題

訓読

古えの學ぶ者は、博く學びて方無ければ、之を約するに禮を以てす。
天子公卿より、以て士大夫に至るまで、學有らざるは無し焉。孔子より以来、茲の道大いに興る。夫れ以(おも)んみるに堯舜の道、文武の政、禮樂制度は、敷きて方策に在り。人をして學びて而して之を得せしむ。其の之を學ぶや、當に其の末を舎(す)てて、其の本を學び、其の大なるを先にし、其の細かきを後にし、常に仁に志して、而して民を安んずるを忘るべからず、流れに溺れて源を廢する勿れ、法言を棄てて、而して無稽の言を聽くこと勿れ。苟くも此(か)くの如くせば、中(あた)らずと雖も遠からず矣。古えの君子、人に過ぐる所以(ゆえん)の者は、其の善く學ぶを以てなり也。今の君子、人に如(し)かざる所以の者は、其の善くは學ばざるを以てなり。善く學ぶ者は古えの如く、善くは學ばざる者は今の如し。豈然らざらんや。然りと雖も世の相望むは、古は猶お今のごとく、今は猶お古えのごとし焉。嗚呼、其れ學ばざるべけんや。
  文化庚午春二月
         佐藤恭題す

口語訳

古えに道を学ぶ者は、広く学んで、要点を失い勝ちになると、之を引き締めるのに礼にのっとる方法を用いた。天子公卿より、ひいては士大夫に至るまで、学が無い者は無かった。孔子がこうした思想を説かれて(『論語』後注参照)より以来、こうした思想が興ったのだ。そもそも考えてみるに、堯舜の道や、周の文王・武王の政治、禮樂制度は、『書経』などの文書に敷衍されている。そうして、人をしてこの事を学んで会得させる。人が道を学ぶ際には、その瑣末な事を棄てて、その根本を学び、その重大な事を優先させて、その瑣末な事を後廻しにし、常に仁に志して、人民を安んずる事を忘れてはならぬ。末流に溺れて根源を廢してはならぬ。法に適った言葉を棄てて、でたらめな言葉を聽き入れてはならぬ。もしこのように実行するならば、たとい的中してはいなくとも、でたらめにはならない。古えの君子が、常人に勝る理由は、彼が善く学ぶからなのである。今の君子が、常人に及ばない理由は、彼が善くは学ばないからである。善く学ぶ者は古えの君子のようになるし、善くは学ばない者は今の常人のようになる。どうして、そうではなかろうか。とはいうものの、世間が望む事は、理想的な古えの状態が今の世に実現し、今の世が古えの理想的な状態になることだ。ああ、学ばないで済もうか、済まない。
  文化庚午春二月
         佐藤恭題す

語注・気付き

*「子曰わく、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざる可きか。」(『論語』雍也第六」)に基づく教育論である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました